コラム13
三十三間堂中尊像の銘文・上
1 京都・三十三間堂について
今回は三十三間堂の中尊、千手観音坐像の銘文から何がわかるのかという話である。
三十三間堂は、京都駅の東方、鴨川を渡った先にあるお堂で、正式には蓮華王院(れんげおういん)本堂という。誰もが一度は訪れたことがあるのではないかというほどの有名寺院で、いや、私は行ったことないよという人も、写真を見たことがあったり、教科書で見た覚えがあったりするのではないか。
三十三間堂の創建は平安時代末期(院政時代)の長寛2年12月(今の暦で1165年1月)だが、鎌倉時代中期の1249年に京都を襲った大火のために全焼し、現在の堂はその後に再建されたものである。しかし、失われた創建期のお堂の様子をよく継承して、中の仏像の安置状況など、創建期とほぼ同様に整えられているものと考えられている。
お堂は南北に長い。その中央には大きな千手観音像が座っており(これを中尊という)、左右に人の背丈に近い大きさの千手観音像がそれぞれ500体ずつ立ち並ぶ。
中央の千手観音坐像は鎌倉時代の火災後の再興像であり、左右の千手観音立像もそのほとんどは鎌倉再興期の作であるが、中に120体あまり創建期の像が混ざる。それらは火災の中から救い出されたものである。
ここで話題とするのは、鎌倉時代に再興された中尊の千手観音坐像に記された銘文である。
2 中尊の腰部仕切り板に書かれた銘文
そもそも銘文とは、器や像の本体に記された文章のことである。その意義を強調するために表面に大きく書かれたり刻まれたりする場合もあるが、仏像では像表面に書かれるということは少なく、ほとんどの場合、像内や台座の内側、立像では像を台座に立てるための「ほぞ」とよばれるパーツに書かれたりする。
もっとも、銘文はどの像にあるというものではない。むしろ銘文を持つ像の方が少ない。また、銘文があっても、ごく短かったり、意味がとりにくい、経年のためにほとんど読めなくなっているといったものもある。そうした中にあって、三十三間堂中尊像の銘文は、私たちにさまざまな情報を伝えてくれるたいへんに貴重なものである。
同時にこの銘文には、一筋縄ではいかない難しさがある。貴重で、さまざまな内容を含み、同時に読み解くのが簡単ではない…要するに魅力的ということである。
この像の銘文は2か所に書かれている。なお、これらは1931年の本堂修理時に発見されたものである。
その1つは、腹部内の仕切り板に書かれている。本像は寄木造という作り方でつくられており、たいへん大きな像であるため、胴体部は脚部を別にしても12もの材を合わせてつくられている。像内は内ぐりによって大きな空間ができているが、がらんどうではなく、補強あるいはほかの用途のためにか、いくつかの木材が挿入されている。その1つが腰部に設置された仕切り板で、そこに銘文がある。もちろん見ることはできないが、写真で見ることはできる。
この銘文は本像の制作に当たって書かれたもの(当初銘)であり、きわめて貴重だが、残念なことに、経年のために読み取れる部分が少ない。
3 近世に書かれた台座心棒の銘文
もう1か所の銘文は、台座の心棒にある。これは、たくさんのパーツからなる台座を貫き安定させる役割を担う重要な角材で、そこに書かれた銘文はほぼ全文を読み取ることができる(一部読みにくくなっているところはある)。ただし、この銘文は後世のものである。台座心棒は近世(江戸時代前期)に取り換えられており、文章もその時書かれたものなのである。
だが、新しい時代に書かれた銘文であっても、軽視はできない。それが何らかの根拠に基づく記録であるかもしれないからである。実際、この銘文の内容は、腹部内仕切り板の銘文の飛び飛びに消え残った文字とほぼ一致している。ということは、近世に台座心棒を取り換えた際に、仕切り板の銘文を写し取ったものと考えることができるそうである。つまり、読み取りが困難な当初銘の内容が、これによって明らかになるというわけだ。
しかし、台座心棒の銘は腹部内仕切り板の銘を写し取ったものだろうという推測は、近世に台座心棒を取り換えた時にはまだ仕切り板に書かれた文章が十分に読めるものであったという前提によって成り立っている。今かなり消えかかっているものが、数百年前にはほぼ読める状態であったと確信を持って言うことはできるのか。うーむ。
あるいはこのように考えたらどうだろうか。さらに別の場所、たとえば取り換えられてしまった元の台座心棒にも同様の銘があって、そちらを写し取ったのではないかと考えたら… しかしそこまでいってしまうと、推測というよりはもはや想像となってしまう。しかし、我々ができることは、限られた史料を使って想像力を駆使し、推論を導く行為を諦めずに続けていくことだけなのだ。
これ以上ぐだぐだ言っていても進まないので、仕切り板と台座心棒の銘文の比較から、台座心棒の銘は書かれた時期こそ新しいが、造像当初の内容を伝えていると考えることができそうだというところに立脚して、話を進めていきいたと思う(この台座心棒の銘文の内容について、もう少し慎重に取り扱うべきであるとする意見もある。なお、心棒のこの銘と反対の側には、江戸時代前期の修理に関する銘文が記されており、その時の担当仏師が湛慶の末裔であることが書かれている)。
4 台座心棒の銘文からわかること
ここからは、台座心棒の銘文の文章を見ていこう。
先頭の方には、「蓮華王院」「千手観音中尊」の文字が消えかかりながらも見え、そのあと、本像がいつ、どこでつくりはじめられて、いつ完成しお堂のもとへと送り出されたかが書かれている。造像はじめは建長3年(1251年)7月、場所は法勝寺(ほっしょうじ)の金堂前とある。初代の三十三間堂が焼けてしまったのが1249年なので、2年後の始動というわけである。
法勝寺とは、院政時代につくられた6つの巨大寺院を六勝寺といい、その1つである。高校の日本史教科書で出てくるので、覚えている人もいるのではないか。巨大な塔があったことでも有名だが、今は何も残っていない。
像の完成は建長6年1月とあるので、2年半をかけて造立したことがわかる。
次がいよいよ仏師に関する情報で、「修理大仏師」「法印」「湛慶」「生年八十二」「ただし康助四代御寺大仏師なり」とあり、行を替えて小仏師の「法眼康円」「法眼康清」の名前がある。このうち「修理大仏師」や「法印」は消えて読みにくくなっているが、こう読んでまあ間違いなかろうとされている。
なぜ「修理大仏師」なのか。ただ「大仏師」でもよいのではないのだろうか。
我々は、三十三間堂は全焼し鎌倉時代に再興されたと考えるが、当時の人たちの意識としては、あくまで手を入れて創建時の姿を取り戻すというものであったかもしれず、それが「修理」という言葉になったのかもしれない。もしくは、1249年の大火で焼失する直前に三十三間堂は修理されているので、湛慶はその修理の担当仏師となっていたのかもしれない。その流れで焼亡後の再興造仏を担当したと考えるならば、「修理大仏師」という名乗りもうなずける。
気になるのは、この名乗りがお堂の仏像全体のリーダーとしてのものか、それともあくまで中尊担当の大仏師ということを指すのかということであろう。もともと修理担当として選定され、それが火災を経て再興の担当になったという流れであるなら、湛慶は堂全体の仏像再興の指揮をとる立場だったと考えてよいようにも思われる。
さて、次の「法印」であるが、これは湛慶の仏師としての位である。当時、仏師に与えられた高い位として法印、法眼、法橋があり、法印は極位(最高位)であった。
「生年八十二」は中尊完成時に湛慶が82歳であったことを意味し、ここから湛慶の生まれ年がわかり、さかのぼって父である運慶がいつごろ生まれたのかの推定にも使われており(運慶は生年の記録がない)、極めて重要な情報である。また、82歳という非常な高齢では、自らノミをふるうというよりも指揮をとったということであったかもしれないが、この年齢で彫刻の世界の第一線にあり続けていたということに畏敬の念を覚えずにはいられない。
いかがであろう。この仏像の銘文は、こんなにも様々なことを伝えてくれているのである。
おっと、何かまとめのようになってしまったが、これで終わりではない。まだ、「ただし康助四代御寺大仏師なり」の部分が残っている。そして、ここが本銘文のクライマックスともいえる部分なのである。
(続く)