コラム12

得長寿院千体観音堂の仏師・下

 

1 円派の優勢

 得長寿院千体観音堂は、大きな聖観音像(おそらく坐像)と、人の体に近い大きさ(等身)の1000体の聖観音像をまつった長大なお堂で、1132年に供養された。1000体の仏像は5人の仏師がそれぞれ200体ずつを担当し、わずか4ヶ月半で完成させたという。
 こんなミラクルな仕事を成し遂げた5人の仏師とは、誰であったのだろうか。
 これより前、11世紀前半から半ばにかけて活躍した仏師定朝は、寄木造を大成し、仏師としてはじめて僧綱位を獲得した。以後、定朝の流れを汲む仏師が貴顕からの要請に応えて仏像を制作し、その功により僧綱位を獲得していくという流れができていく。そうすると、この5人の仏師も定朝の流れを汲み、僧綱位を有し、大きな工房のリーダーであった可能性が高いであろう。
 得長寿院がつくられたころは、定朝を1代目として数えると3~5代目の仏師が活躍していた時期である。なお、このころは鳥羽院の院政期であった。
 ところで、定朝の系統を引く仏師は、3つの流れに分かれていく。それらを今日では院派、円派、奈良仏師と呼ぶ。院派は名前に「院」の字がつく仏師が多かったのでそう呼ばれ、円派も同様に名前に「円」の字がつく仏師が多かったためであり、奈良仏師は奈良の興福寺を根拠地としたことからそのように呼ばれるが、奈良仏師の活躍の舞台は常に奈良にだけであったわけでなく、時期によって院派、円派とともに京都での造仏にあたることもあった。なお、運慶、湛慶らの慶派は奈良仏師の流れから登場するのだが、これはのちの話である。
 さて、以上の3派のうち、1130年前後には円派が他派を圧倒する勢いで、非常に優勢であった。


2 円派隆盛の原因と当時の僧綱仏師

 定朝の流れを汲む3派の中で、摂関政治が最盛期を過ぎ、院政の時代となった時、この新たな政治といちはやく結びついたのが円派仏師であった。他方、院派、奈良仏師は遅れをとった。得長寿院に先立って、その東側の地に1102年に供養された巨大寺院、尊勝寺の堂塔の仏像も、円派の円勢がそのほとんどを担当したようである。
 当時の円派のリーダー、円勢は定朝の次の次の世代を代表する仏師で、僧綱の極位(最高位)である法印にのぼった。長命で活躍時期も長く、他派に容易につけ入らせることなく、院関係の造像の中心であり続けた。その子(または弟子)の長円と賢円は円勢の指導のもと着実に成長し、1131年の時点でともに法眼にのぼっていた。
 このようにみていくと、円勢、長円、賢円は得長寿院造像5仏師に入っていたと考えられるだろう。特に円勢は、全体を統括するような立場でもあった可能性も考えらえる。(注)

*注:円勢は定朝の弟子の長勢の子(または弟子)。生年は不詳。1083年法橋、1101年法眼、1102年法印となる。200人あるいは300人もの弟子を抱えて工房を経営した。1134年死去。円勢の作として現存するものに、仁和寺北院の薬師如来像がある(1103年、長円との合作、秘仏)。長円は生年不詳、1105年法橋、1118年法眼、1132年法印となる。1150年死去。賢円は生年不詳、1114年法橋、1130年法眼、1136年法印となる。1154年までの活躍が確認できるが没年は不明。


3 残る2人は長円と院覚か

 実は、僧綱位を得た僧の名簿を年次ごとに記載した『僧綱補任(そうごうぶにん)』という記録が存在する。仏師等の補任も一部に見え、幸い1131年のところ(裏書)には、木仏師で僧綱を持つ者が6人いたことが書かれている。
 それによると最高位の法印は1人で円勢。これに次ぐ法眼は2人で、長円と賢円。あと3人がその下の法橋であった。
 法橋の3人だが、記載順に康助(奈良仏師)、長順(円派)、院覚(院派)である。得長寿院千体仏担当仏師の残る2名はこの中にいるのだろうか。
 このうち、長順は長円の子と思われる(長円の子に長俊という仏師がいたとされ、長順と同一人物と考えられている)。長順は『僧綱補任』に1131年に法橋として現れ、翌1132年には法眼に進んでいる。独立して工房を営むまでにはなっていなかったかもしれないが、円派の未来をしょって立つ期待の星として円勢や長円の助けを受けて、得長寿院の5人の仏師の1人に入った可能性は大いにあるのではないか。
 院派の院覚はどうであろうか。実は院覚はこれより前、白河院の勘気をこうむって活躍不能に追い込まれていた時期がしばらくあった。鳥羽院の時代になって復活を果たし、摂関家関係の造仏のほか、院のための造像も手がけ、それまでの足踏みを取り戻すように1130年に法橋、1132年には法眼へと進んでいる。これまでの造仏界が円派一色であった中、鳥羽院によって意図的に引き立てられている感もあり、得長寿院の5仏師の一角に食い込んだ可能性はあるだろう。
 では、奈良仏師の康助はどうであろうか。『僧綱補任』に、1131年に法橋であった3人の仏師の中で先頭に書かれているのが康助である。おそらくこれは法橋としての経験年数が一番長かったからであろう(1116年に法橋となっている)。しかし、その後は長順、院覚に抜かれ、この2人は法眼にのぼったのに、康助は法橋に据え置かれる(1140年になってようやく法眼になる)。そればかりか、奈良仏師の地位さえ長円に脅かされたらしい(注)。この時期、康助は院との関係はいかにも遠いという感じなのである。このことから推定して、康助は得長寿院造仏担当の5人の仏師の中に入ってはいなかったと考えることができそうである。

*注:1129年、長円は興福寺大仏師を望み、鳥羽院ならびに関白のお墨付きを得て奈良に向かい、これに興福寺の僧らは反発して騒擾になったという記録がある。この事件は、当時康助が院から重んじられていなかったことを示すものであるといえる。


4 その後動きと得長寿院の末路

 ここまで、得長寿院千体観音堂の造仏を担当した仏師5人を、円勢、長円、賢円、長順、院覚と推定してみた。円派から4人、院派から1人となり、院派の優勢が改めて浮き彫りになる一方、奈良仏師は入れず、3派そろい踏みで1000体の造像にあたったという結論にはならなかった。いかがであろうか。
 ここからは、その後の状況についてみていくことにしよう。
 円勢は1134年に没するが、そののちも長円、賢円の活躍は続き、しばらくは円派優勢が続く。しかし円派にとって誤算であったのは、その次の世代の長順(長俊)が1134年に若くして没してしまったことである。これのみが要因ではないが、かつてのような円派の独占状態は破られ、12世紀後半になると、次第に院派の院尊や奈良仏師の康助、康慶(慶派の祖)が力をつけて、仏師の勢力分布は塗り替わっていくことになる。
 その奈良仏師の康助であるが、1132年に薬師十二神将を増進するなど院への接近をこころみ、造像の軸足を奈良から京都へと移していく。そして、よく長命を保ち、1164年に供養された三十三間堂の造仏の中心となる。12世紀前半には不遇ともいうべき立ち位置であった康助だが、得長寿院造仏担当と推定した5人の仏師が鬼籍に入ってのちまで生き、三十三間堂というもう1つの千体観音堂の造立という大舞台で活躍することを得たのである。

 得長寿院千体観音堂のその後を述べて、この文章を終えていくことにしよう。
 実はこのお堂のその後は極めて残念なもので、完成後20年もたたないうちに、堂は西側に傾いてしまったという(『本朝世紀』)。短期間の突貫工事ゆえのことでもあったろうか。そして、1185年に京都を襲った大きな地震によって倒壊し、その後再建されることはなかった。
 九条兼実は日記(『玉葉』)に、これは伝聞であると断りながら、次のような話を記している。白河あたりの転倒した堂舎は往来の者に薪として取られてしまっていたが、ついには仏像までもがこわされ薪にされている、と。
 当時は源氏と平氏による内戦が続いた上に、飢饉が長引き、疫病が蔓延し、そこに地震が襲い、都は死者であふれていた。得長寿院の仏像も、苦しい日々を送る人々にとっては、生きるために必要な燃料でしかなかったのだろう。
 なお、得長寿院があった場所は史料によってほぼわかっているのだが、その遺構はいまだ確認されていない。琵琶湖疎水のかたわらにひっそりと碑が立つのみである。


<参考文献>
「奈良仏師康助と高野山谷上大日堂旧在大日如来像」(『佛敎藝術』189号)、武笠朗、1990年
「平清盛の信仰と平氏の造寺・造仏(下)」(『実践女子大学美學美術史學』14号、武笠朗、1999年
「院政期の『興福寺』仏師」(『仏教藝術』253号)、根立研介、2000年
「仏師円勢 : 円派仏師研究(2)」(『実践女子大学美學美術史學』35号)、武笠朗、2021年
「仏師長円 : 円派仏師研究(3)」(『実践女子大学美學美術史學』36号)、武笠朗、2022年
「仏師賢円 : 円派仏師研究(4)」(『実践女子大学美學美術史學』37号)、武笠朗、2023年

 

 

 

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