8-8 拝観を終えて-百花の感想
三十三間堂の前にも千体の観音さまをならべたお堂があったそうです。そのお堂、得長寿院はできて50年後の地震で倒れ、以後再建されることはなかったとのこと。一方、三十三間堂は鎌倉時代の火災で全焼してしまったのに、焼失前と同じ場所、規模で再建されて今に至っています。
得長寿院のように、今に伝わることなく消えていったお寺や仏像ってきっとたくさんあったのでしょうね。でも、その一方で、三十三間堂のように再建や修復をされながら今に伝わるものもある。その分かれ目ってどこにあるのでしょう。単なる偶然? それとも…
三十三間堂は近代の時期にも大ピンチになったそうです。近くを通る汽車の煙にいぶされたりして、仏像もひどい状態だったとか。鉄道は文明開化とか近代化の象徴みたいな感じだったのでしょうが、その陰でお寺や仏像のような伝統的なものは軽視されてたってことですかね。そういえば、法金剛院にうかがったときも、鉄道を敷くために境内が削られてしまったという話を聞いたような… かつての荒廃した三十三間堂を訪ねた人は、悲しい気持ちになったかもしれませんね。
そんな中、ついに修復事業がスタート。でも当時は戦争中で、若者が戦争に取られて高齢の技術者ばかりになってしまったとこのこと。もうそんな時代が来ませんようにって思います。
さらにその後の修復事業も終わって、すべての観音像がお堂に戻っています。拝観するなら、今が絶好の機会! いつのことかはわかりませんが、これからまた少したてば、修復がまたはじまるんじゃないかってゆいまくんは言っていました。
でも、修復を繰り返しながら、本来の状態が保たれて、何ごともなかったかのように仏像が未来へと渡っていけば、それが何よりのことですよね。だから、もし将来このお堂を訪れて、仏像の一部が修復のために席をあけていたら、ああ、これでいい、これがすばらしいことなんだって、そういうことなんです!!
戦中戦後に休まず修復をしてくださった方々もすごいですが(敗戦を知った8月15日も仕事を続けていたとか)、鎌倉時代の大火でお堂が焼け落ちる中、100体以上の仏像を命がけで救い出した方もすごいですね。
その助けられた創建仏に合わせて鎌倉再興期の仏像がつくられていったわけです。
はじめ、その両者を見分けることはまったくできませんでした。いや、たぶん今もできないな。ゆいまくんから「これが創建仏」「これが湛慶作」って教えてもらったから、だんだんわかってきたつもりになったけど、もう一回見に行って、自分で見分けられるかっていうと、それはたぶんムリっ。そんな私でも、教えてもらって見ているうちに、湛慶さん、隆円さん、院承さんの仏像はそれぞれに特徴があって、違っていることがほんのちょっとわかってきたような気がしました。創建仏に合わせてつくられていても、やっぱり時代の特色や作者の個性やくせ的なものが出ちゃうんですね。考えてみれば、人の手でつくったものだから、当然だし、だからこそ尊いっていうことも言えるようにも思います。
<百花さんから追加のひとこと>
拝観順路に従ってお堂の裏側へと回っていくと、中尊の真うしろで最後の観音さまにお会いできます。1001号像です。
ゆいまくんによれば、古来より本尊像の背面は大切な空間と考えられていたそうで、そこに重要な仏像を安置するということは他のお堂でもあるとのこと。三十三間堂も中尊の裏側の空間に一体置くことが必要と考え、1001体めの像を安置したのでしょうね。ただし、創建時からそうだったのか、鎌倉再興期から置かれることになったのかは定かではありませんが。
1001号像は銘記があって、法眼院有という仏師の作とわかります。大きさ、姿形など他の千手観音立像と比べて特別なところは特にないようです。しかし、正面側は中尊、その光背の三十三応現神、二十八部衆、風神・雷神、千体の千手観音像がところ狭しと立ち並んでいるというのに、後方はこの1体で担当していると考えると、この方の責任は重大ですよね。ということは、とても頼もしい仏さまということでもあるということか。よしっ! 全力で拝んでおこう!