8-7 今、1001体の観音像がすべて揃う
百花さん じゃあ、院派や円派にはどんな仏師がいたの?
ゆいまくん 円派は隆円(りゅうえん)、昌円(しょうえん)、栄円、勢円という4人の仏師が造像に加わっているんだ。その中で1人あげるなら、隆円だね。
隆円は鎌倉再興期の造仏に参加したすべての仏師中、最も多い24体の仏像をつくっているんだ。位も湛慶と同じく法印に昇っている。宮中や比叡山延暦寺関係など、重要な造仏に多く携わったことが記録からわかっているんだけど、残念ながら今日まで伝わっている彼の確実な作品はこの三十三間堂の像だけなんだ。生没年は不明。湛慶同様、三十三間堂再興事業の途中で亡くなってしまったらしい。
最前列だと、中尊に近い位置に立つ500号像や620号像は彼の作だよ。
百花さん えっと、500号像は… 中尊の向こう側(南側)ね。
口もとを引き締めて、なんだか厳しい先生みたい。湛慶さんの像が若々しい感じなら、こちらは大人の雰囲気かな。上半身はゆったり大きく、ウエストはしっかり絞って、下半身はすっと長い。つまり…えっと抑揚があるっていうか、メリハリがしっかりとしているね。
じゃあ、次は院派仏師の作を教えて。
ゆいまくん 院派からは10人以上の仏師が参加し、作品数も三派中最大なんだ *。
三十三間堂の復興造仏の中心は湛慶とそのあとを受けた康円、ということは慶派仏師だよね。また、鎌倉彫刻といえば東大寺南大門金剛力士像などの印象が強く、慶派の躍進と活躍というイメージで語られることが多いんだけど、この三十三間堂復興にあたった仏師とその作品を見る限り、実態としては前の時代に引き続いて院派が優勢だったということができそうだね。
百花さん 確かに… 歴史の教科書にあったのは、運慶・快慶、東大寺南大門金剛力士像だもんね。鎌倉仏といえば慶派みたいに思っていたけど、実はそれだけじゃあないんだね。ちょっと意外〜。
ゆいまくん 院派仏師の中から2人あげるとすれば、院承(いんじょう)と院恵(いんえ)だね。彼らはそれぞれ21体の像をつくっていて、これは円派の隆円に次ぐ数だよ。また、仏師としての位も湛慶、隆円と同じ法印に昇っていて、さらにこの2人の仏師がつくった像にだけ、高位の貴族の結縁銘があるんだ
**。
百花さん ふーん、湛慶さんを別にすると、この2人は別格っぽいのかな。仏像はどれ?
ゆいまくん 最前列で見ると院恵作の像は170号、350号、610号、750号の4体、院承作の像は70号、600号の2体がそうなんだ。
百花さん えっと、70号像が院承の仏像… 最前列で左から7番目だから、これね。
うっ、この仏さま、かわいい!(♡) 顔が小さくて、ほっぺはぷゆんとしているみたい。はにかんで微笑みを浮かべているようにも見えるね。体は、ほっそーい! 湛慶さんの像がゆったりなら、こっちの像は可憐でちょっとはかなげかな。こういうのが貴族にも受けたのかな ***。
ありゃ、最初はみんな同じに見えていたのに、不思議ー。みんな違うんだ。あと、創建時に合わせていても、顔立ちにや体つきに抑揚があったり、変化をつけていたりして、これって鎌倉時代の仏像らしいリアルさが見えちゃってるとも言えるかな。
ゆいまくん ところで、百花さん。修学旅行の時に三十三間堂を訪れたことがあるということだったよね。その時、これらの仏像、全部揃っていたかな?
百花さん えっ、揃っていたかって、どういうこと? うーんと、今と違うところなんてあったかな。あったような、なかったような…
ゆいまくん 実はね、以前は修理のために席を空けていた像があったんだよ。
そもそも仏像はつくられて数十年もたてば、もちろん環境にもよるけど、どこかしら傷んでくる。表面の金箔がはがれたり、材をはぎ合わせたところ、脇手や頭上面など別に彫って取り付けている部分、首や足首のように細くなっているところなども傷みやすいんだ。また、持物が失われたり、台座や光背を取り換える必要が出てきたりもするんだ。
百花さん 確かに。うちにあった雛人形や五月人形も、人形の持ち物がなくなっちゃたりしていたかも。あ、それは私が子どものときに手に取って遊んでいたせいかな。
ゆいまくん 三十三間堂の仏像も、鎌倉期に再建されたのち、50年から100年に1度くらいのペースで修復されていたんだ。ところが、17世紀半ば以後は大きな修理が行われず、20世紀初頭まできてしまった。
その頃の三十三間堂は、今と違ってすっかりさびれていたそうだよ。近くを通る汽車のばい煙で仏像は黒ずみ、まっすぐに立つこともできずに2体で互いに寄りかかるようになっていたり、頭上面、手、持物、天衣(てんね)の一部、台座の一部など散落して、それらは箱詰めされ、中尊の壇の下に収納されているといったありさまだったんだ。
百花さん 今の三十三間堂からは考えられないけど… そんな時代があったんだ。それにしても、汽車の煙でいぶされたり、立つのも難しい状態だったりって、ひどすぎない?
ゆいまくん 三十三間堂の場合、仏像を修理するといっても、何せ1000体もの群像だからね。何人がかりでどのくらいの期間で、予算はどのくらいって、計画を立てるだけでも容易ではなかったろうね。しかし、ついに1937年から毎年50体、20年計画で修理していくという方針が立てられたんだ。
百花さん 1年に50体ずつで20年間! 大プロジェクトだね。
ゆいまくん ところが、1937年といえば日中戦争がはじまった年だし、1941年からは太平洋戦争に突入して、ほんとうに大変な時代だったんだ。壮年の者は次々と戦争にかり出され、修復を行う技術者も高齢の人ばかりとなってしまった。材料の木材や漆も不足し、釘や金箔の入手も困難を極めた。それでも修理は途切れることなく続けられて、計画より1年遅れただけの1956年にすべての仏像の修復を完了させることができたんだ。
百花さん …すごいね。
ドラマで見たんだけど、あの時代って戦争に直接関係のある仕事をしていないと「非国民!」みたいにののしられたりしたんだよね。修復にあたっていた人たちも、そんな肩身がせまいような思いをしたかも ****。
ゆいまくん 厳しい時期であっても事業を継続したからこそ仏像が次の時代へ伝わっていくことができた。それ以上に、修復の技術そのものだってこの事業が行われたことによって引き継がれていくことができたといえるんだ。
百花さん この観音さまたち、ずっとずっと同じ姿で私たちを見守ってきてくれたように思ったけど、それは多くの人たちの支えがあってのことなのね。
ゆいまくん 修復の話は、これで終わりではないんだ。この修復事業の完了から17年後、再び仏像修復が始まったんだよ。
百花さん えっ、せっかく修復しても、17年でもうダメ? また次の修理が必要になったの?
ゆいまくん 修復事業のはじめのころ、つまり戦中に修復された仏像にとっては、すでに50年近くが経過しているわけだからね。ただ、今回の修復は表面の剥落止めなどを中心とするいわばメンテナンス的な修理となった。長い年月の間に傷んだ部分については、前の修復事業で直し終わっていて、その上での修復ということだね。
1973年からはじまって、2017年まで、毎年10~20体くらいのペースで進んで、その時修復のためにお堂を離れていた仏像ところは席が空いていたようになっていたんだ。
百花さん そういうことね。で、その今回の修復事業もすべてが終わって、これを機会に国宝指定となったってことね。
ゆいまくん それとは別に何体かの像が東京、京都、奈良の国立博物館に寄託されてたんだけど、それらの像も戻って来たんだ。だから、今は1001体の像がすべてそろっているってわけだよ。
でもね、1973年からの修復事業のはじめの方でメンテナンスを受けた仏像は、それからもう50年が経過してしまったからね。きっと、また少したてば、順々に修復に出て行くことになるかもしれないね。
(注)
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三十三間堂の復興造仏に参加している院派仏師は、院継、院審、院遍、院承、院恵、院瑜、院豪、院賀、院有、院海、院祚、院玄の12名をあげることができるが、ほかにも院派系仏師かと思われる名前も銘記には見いだせる。いずれにしても院派からはもっとも多くの仏師が参加しており、上に記した12名の仏師が制作した像を合わせると104体となる。円派仏師4人による43体、慶派(行快、春慶も合わせて)22体を大きく引き離している。
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たとえば院承作の21体のうち、5体に「近衛殿御分」や「近衛殿御結縁分」という銘記がある。近衛殿は摂政近衛(藤原)兼経のことと思われる。兼経は後嵯峨上皇から千体千手観音の再興のためにまず20体をとの話を受けて、では10体を造進しましょうと答えているので、あるいは近衛殿の結縁銘をもつ像は、その10体の一部であるかもしれない。いずれにしても、こうした結縁銘から、院派仏師の隆盛の背景に高位の貴族との結びつきがあることがわかる。
*** 一般的には、院承や院恵作の像は平板、単調で、湛慶や隆円の像と比べて作行きが劣ると評価されることが多い。三十三間堂の再興事業およびこれに先行する法勝寺(ほっしょうじ)阿弥陀堂再興において院派が他派を圧倒しているのだが、作風、様式においては停滞が甚だしいともいわれる。
**** 美術院国宝修理所の技術者として三十三間堂の仏像修理に加わった辻本干也は、修理にたずさわっていた人は非国民のように見られたり、軍需産業には適さない役立たずとののしられたりしたが、じっとこらえて作業にあたっていたと述べている。