8ー11 三十三間堂の千手観音立像関係年表
988年 藤原為光が法住寺を建てる。
1032年 法住寺、焼亡
1132年 鳥羽上皇、得長寿院千体観音像を建立(こちらも三十三間でつくられた)
1155年 後白河天皇、即位。
1158年 後白河天皇、譲位し上皇となる。
1160年 後白河上皇、法住寺殿を造営。鎮守として新熊野社、新日吉社を勧請。後白河上皇、熊野詣に行く。生涯でおよそ30回行ったとされる熊野詣での最初。
1161年 後白河上皇、法住寺殿に移る。
1162年 後白河上皇、2度目の熊野詣。新宮で今様をうたう。
1165年(長寛2年=1164年だが、12月17日であるので現在の暦では1165年)法住寺殿内に千体千手観音堂をつくる。現、蓮華王院本堂(三十三間堂)。平清盛が造営し、その譲りとして子の重盛が正三位にのぼる。また、仏師康朝が法眼となる(康助の譲りか)。
1169年 後白河上皇、出家し法皇となる。
1173年 仏師湛慶、運慶の長子(おそらく)として生まれる。
1176年 法住寺殿西南にもう一棟の千体千手観音像を建立(蓮華王院本堂よりも小規模、小千手堂ともよばれる)、蓮華王院東法華堂供養(造仏担当は院尊)
1178年(寿永元年=1177年だが、12月17日であるので現在の暦では1178年)蓮華王院五重塔供養(造仏担当は康慶)
1183年 蓮華王院北斗堂供養(安置仏については不詳)
1184年(寿永2年=1183年だが、11月19日であるので現在の暦では1184年)法住寺殿が源義仲によって焼かれる(法住寺合戦)。三十三間堂は無事。
1185年 京都で大地震(元暦地震または文治地震)。得長寿院は転倒し、その後再建されなかった。三十三間堂の被害は比較的軽微か。
1192年 後白河法皇、死去。蓮華王院東法華堂に葬られる(現、法住寺陵)。
1193年 後白河法皇1周忌法要のため、蓮華王院内に小御堂(阿弥陀堂)がつくられる(阿弥陀三尊は院尊作、不動二童子像は幸経(康慶)の作)
1206年 三十三間堂修理の記事あり。修理の内容は不詳。
1212年 湛慶、法印となる。(父、運慶の譲り)
1246-1249年 蓮華王院を修理。
1249年 建長の大火。蓮華王院は本堂(三十三間堂)をはじめ、堂塔のほとんどを焼失。三十三間堂からは中尊の首、左手、千体千手観音像のうち156体と二十八部衆像が取り出される。(ただし、もとの中尊の首、左手は伝わらない。伝来する創建仏は124体)
1251年 三十三間堂の造仏を開始。千体千手観音像再興に向け、近衛(藤原)兼経が後嵯峨上皇にまず10体を造進すると伝える(院承作で兼経の結縁銘のある像がこれにあたるか)。三十三間堂、上棟。
1254年 三十三間堂中尊の千手観音坐像が完成し、届けられる。大仏師は法印湛慶、小仏師は法眼康円、法眼康清。
1256年 湛慶、死去。84歳。
*湛慶の死後、康円が大仏師を継いだと考えられている。
1266年 三十三間堂、落慶
*三十三間堂以外の蓮華王院堂塔は再建されることはなかった。
*千手観音立像の銘記中の年はすべて1251年~1266年の間。
1413年? 千手観音立像の1体を兵庫・朝光寺へ移す(現朝光寺本堂西本尊)。これ以後、その欠を補うために、千手観音立像1体をつくり、安置する(32号像)。
1433-1437年 三十三間堂および安置仏修理。中・近世では最大規模の修理とみられる。仏師は法印弁円ら。中尊須弥壇はこの時のもの。
1545年 三十三間堂、修理。
1596年 京都で大地震(慶長伏見地震)。三十三間堂は無事。仏像はかなり転倒か
1600年- 三十三間堂の仏像を修理。仏師は法印康正ら
1606年 浅岡平兵衛が三十三間堂通し矢の成果を額にし掲げる。
*通し矢の起源は不明。室町時代後期から行われていたか。
1649-1651年 三十三間堂および仏像を修理。仏師は法印深玄、法眼康知ら
1897年 蓮華王院本堂(三十三間堂)を国宝指定(戦前の制度、現在の重要文化財)
1900年 蓮華王院二十八部衆像を国宝指定(戦前の制度、現在の重要文化財)
1908年 蓮華王院千手観音坐像を国宝指定、風神・雷神像を国宝指定(戦前の制度、現在の重要文化財)
1930年-1934年 蓮華王院本堂、解体修理
1931年- 蓮華王院千手観音立像の状態を調査
1935年 蓮華王院千手観音立像を国宝指定(戦前の制度、現在の重要文化財)
1937年 蓮華王院千手観音立像の修理開始
1951年 蓮華王院千手観音坐像を国宝指定
1952年 蓮華王院本堂(三十三間堂)を国宝指定
1955年 蓮華王院二十八部衆像、風神・雷神像を国宝指定
1957年 蓮華王院千手観音立像の修理完了
1973年 蓮華王院千手観音立像の修理開始
2017年 蓮華王院千手観音立像の修理完了
2018年 蓮華王院千手観音立像を国宝指定