8-10 ゆいまくんの追加講義 - 三十三間堂の仏像は謎と不思議に満ちている!


 まず、不思議な銘文の話だよ。
 最前列、中尊に近い位置に立つ510号像には、運慶の銘があるんだ。しかし、運慶と三十三間堂では、時代が合わない。
 運慶の生年は不明だけど、12世紀半ばごろに生まれたと推定されている。1150年ごろの生まれということだね。一方、三十三間堂の創建は1164年だから、その時運慶は10代の前半か半ばということになる。そんな若さで造像に参加したんだ、さすが運慶って思ったら、それはとんだ早とちりだよ。創建仏で銘文がある像はないというのが現在の常識だし、この像は特徴から再建期の作と考えられているんだ(作風は、院派仏師の院賀の像に近いといわれている)。では、再建期に運慶がつくったのではないか。いや、それもありえない。なぜって、この時期に運慶の子の湛慶が80代で亡くなっているわけだから、運慶が生きているはずもない。
 では、この銘をどう考えればよいのだろうか。
 結論から言えば、銘はのちに入れられたものと考えられる。つまり「偽銘」だ。あるいは、後世に運慶作と鑑定された「鑑定銘」なのかもしれないが。それにしても、いつ、誰が、何のために書き入れたものかはわかっていないんだ。不思議だね。

 次の謎は、規格外というべき像が混じっていることについてだよ。
 仏像の目なんだけど、その作り方は2種類ある。1つは本体から他の部分と同様に彫ってつくられた彫眼、もう1つは水晶を用いてリアルな目の表現を生み出した玉眼(ぎょくがん)だ。玉眼が登場するのは12世紀半ばだから、1164年完成の三十三間堂創建時にはもう発明されていたんだけど、創建仏124体はすべて彫眼でつくられている。だから、それにならってつくられた鎌倉再興期の仏像も当然彫眼でつくられた(ただし中尊の千手観音坐像は玉眼)。なのに、なぜか5体、玉眼の像が混ざっているんだ。78号、80号、120号、169号、459号像だよ。これって規格を外れた像ってことだよね。でも、よほど近くから見ない限り気がつかないから、つくられた当時も「まあ、いいか」みたいになったのかな。不思議といえば、不思議だね。
 ところで、この玉眼の像のうちの2体(120号、169号)は、笠間時朝(かさまときとも)という武士の結縁銘があるんだ。時朝は北関東に領地を持つ御家人で、文武にすぐれ、深い仏教信仰をもっていたことが知られているんだ。関東の御家人で像に結縁している人物は時朝だけなんだよ。そのことと、その像に玉眼が入れられていることは何か関係があるのかはわからないけどね。
 規格外といえば、もう1件。これは謎ではないんだけどね。
 菩薩像が肩にかけている布を、天衣(てんね)というよね。天衣は細く長い布で、下半身の前を横切り、腕を回って体の横で下がっていく。体の前を横切る部分の天衣は、三十三間堂像の場合、別の材でつくって取り付けられているんだけど、40体ほどの像で、本体から直接刻みだしているものがあるんだ(例、28号像、29号像)。その理由は見当がついている。三十三間堂の完成式典の日時が近づいたところで像の数を確認したところ、足りていないことが判明し、慌てて作り足したということらしい。規格外であるとわかっていながら、天衣を別材とせずに本体から刻みだしたのは、時短のためということになるね。

 さて、謎の話を最後にもう1つだけ。
 1001体の観音像のうち、創建仏が124体、鎌倉再興期の像が876体。おや、これだと1体数が合わないよ。実は、最後の1体は室町時代作の像なんだ。それは32号像。かなり上の方にあるので、よく見えないんだけどね。
 中尊像の真うしろの像(1001号像)を拝観したあと、さらに進むとモニターが設置されていて、これを操作するとすべての像の姿を見ることができるようになっている。これを使って32号像の姿を見ると他の像とは明らかに異なっていて、時代が違うとわかるんだ。
 なぜこの1体だけがあとで補われたのかは長い間謎だったんだけど、近年、兵庫県加東市にある朝光寺(ちょうこうじ)に三十三間堂の鎌倉再興期の千手観音像がまつられているのがわかったんだ(朝光寺の本尊は2体の千手観音像で、どちらも秘仏となっているが、そのうちの1体。西本尊と呼ばれている。足枘に三十三間堂の仏像にあるのと同じ実検銘がある)。このことから、三十三間堂から仏像が1体朝光寺へと移され、その補いとして室町時代作の1体が加えられたという流れがわかってきた。しかし、そもそもなぜ移すことになったのか、三十三間堂と朝光寺はいかなる関係があったのかなど、別の謎が出現することになってしまったんだ。
 このように、三十三間堂は謎と不思議に満ちている。なんてわくわくするお堂と仏さまなんだろうね!