6-9 納入品の文書の奥書、1220年

 

百花さん そうすると、この文殊菩薩と脇侍像は、重源さんが快慶につくらせたもので、そこには重源さんの強い思いがあったということね。重源さんは強い文殊信仰をもっていて、東大寺再興の一環としてここに文殊菩薩の霊場を開きたいと考えたからなのね。うん、よくわかった!

ゆいまくん 百花さん、実は話はこれで終わってはいないんだ。大切なことを忘れていないかな。

百花さん えっ、どういうこと? まだ何かぶっこもうとしてるの? ちょっと、やめてほしいんだけど。

ゆいまくん ぶっこもうとしているって、なんか人聞き悪いなあ。
 えっとね、この像は銘文があるだけでなくて…

百花さん あっ、そうだ。納入品もあるんだよね。忘れてた! そこに、今までの話に出てこなかった新しいことが書かれていたりするのかな。
 納入品は、願成就院の宝物館で拝観したのと同じようなものなの?

ゆいまくん こちらの像に納められていたのは、紙に書かれた文書なんだ。巻物の形になっていて、伸ばすと2メートル以上になるんだよ。像からは取り出されているんだけど、別保存されていて、残念ながら見ることはできない。

百花さん 長い巻物なのね。どんなことが書かれているの?

ゆいまくん 3つの部分からなっていてね、まず、「仏頂尊勝陀羅尼」。これは、文殊菩薩像の脇侍の仏陀波離がインドに取りに戻って中国に伝えたというお経の「仏頂尊勝陀羅尼経」の中で説かれている陀羅尼(仏の真実の言葉、梵字で書かれている)だよ。
 次に書かれているのが、文殊菩薩をあらわす聖なる文字である梵字。繰り返したくさん書かれているんだ。

百花さん 聖なる言葉や文字を像内に籠めるのは、この像を真の仏とするための工夫なのよね。
 じゃあ、3つめは?

ゆいまくん 奥書(おくがき)だ。この巻物について、いつ、誰が、何のために作成したものかが書かれているんだ。

百花さん その中には、関係者の名前が書いてあったりするのね。それは、すごい手がかりね。重源や快慶の名も出てくるんでしょう?

ゆいまくん ところが、そこには重源や快慶の名前はなくてね、造立した人物として慧敏(えびん)、執筆者として最後に空阿弥陀仏の署名があるんだ。それに、年がね…

百花さん 年が… えっ、何? 怖い、怖い。ためないで、すっと言ってよ。

ゆいまくん 1220年…

百花さん 銘文の年は1203年だよね。なのに、納入品に書かれているのは1220年? まじか…
 納入品って普通、完成する前に入れるものでしょう *。えっ、ここでまさかの急展開、キターっ。
 …ということは、1203年には銘文は書いたけど、完成までには至らなかったってことかな。本当の完成は1220年に納入品が制作され、それが納められたあとってこと? その時って、重源さんや快慶は…

ゆいまくん 重源さんは1206年に86歳で亡くなっている。快慶は晩年にはなっているけど、まだ仏師として活動していることがわかっているんだ。

百花さん じゃあ、この像の作者は快慶というのはいいんだよね。でも完成時の造像の中心は別のお坊さんに移っていて、しかも、その間17年もの歳月がかかっちゃったのね。不思議~。
 あっ、重源さんが亡くなったことで、推進力が失われて、一旦停止状態になっちゃったのかな。

ゆいまくん 重源は1203年の末ごろ、自分のこれまでの行いを自らまとめて、それを「南無阿弥陀仏作善(さぜん)集」と名づけているんだ。東大寺復興のめどが立ってきたところで、自身の生涯をまとめておきたいと思ったのだろうね。
 ところが、そこは余人ならぬ重源のこと。人ごこちついて、過去を振り返って…なんてことにはならないんだ。またすぐに動き始めて、次は東大寺の東塔の再建を目指したんだ。

百花さん 80歳を越えても、重源さんはまだまだパワフルだったんだ。さすが! これまでの人生を振り返って、「我ながらよくやったの~、あとは若い者に任せて…」なんてなったら、それこそ、らしくないよね。重源さんは最後の最後までミラクルじいさんだったんだね。

ゆいまくん ところが、ここへ来て重源と東大寺の僧らの間に溝が生じてしまうんだ。
 東大寺の僧は、大仏殿の次は講堂や僧坊、つまり僧の活動や生活のためのお堂を優先して再建してほしいと望んだんだけど、重源は聞き入れず、塔再建のための勧進をスタートさせてしまう **。その塔は、重源の案では六角七重という前代未聞の姿になる予定で、完成したあかつきには、大仏殿内と塔前でたくさんの童に法華経千部を読ませるつもりだったらしい。

百花さん 六角七重塔に、子どもを集めて法華経? 講堂や僧坊が必要という東大寺のお坊さんの願いは地に足がついてる感じなのに、重源さんの考えってぶっとんでるよね。規格外のすごさがある人だからこそ、東大寺再興を成し遂げることができたんだろうけど、その勢いのままに突っ走り続けようとしたら、まわりは困惑しちゃうかもね…
 そういった対立もあり、そのあと重源さんが亡くなってしまって…で、崇敬寺に文殊の聖地をつくるという彼の意思も棚上げになっちゃったのかな。

ゆいまくん 今となっては、その間の細かな事情まではわからいけど、そういうことだったのかもしれないね。

 


(注)
* 納入品の巻物は1891年ごろに取り出されて、現在のような巻物仕立てとなったらしい。その時の記録は十分でないため、もとの状態や、それが像のどこにどのように納入されていたかなどは残念ながらわからなくなってしまっている。
 願成就院の不動明王像、童子像、毘沙門天像の場合と違い、文殊院の文殊菩薩像は坐像で、像底はふさがれていないため、像が先に完成していて、その後に納入品をこめるということも可能かもしれない。

** 東大寺東塔は1227年に完成するが、現存していない。