6-8 快慶大忙し、その理由とは

東大寺南大門金剛力士像 阿形像
東大寺南大門金剛力士像 阿形像

 

ゆいまくん じゃあ、重源について、南都焼打ちまでさかのぼって、見ていくことにしよう。
 平氏の軍勢が奈良へと襲いかかり、興福寺、東大寺が火の海となったのは、治承4年12月(今の暦では1181年1月)のことだ。興福寺はほぼ全焼、東大寺は境内の北にある正倉院や東にある法華堂などは焼失をまぬかれはしたものの、大仏殿は焼け落ちてしまった。大仏は首が落ちるなど非常に激しく損傷をこうむり、これを見た日本の工人が「とても手に負えるものではない」と述べたと伝えられているんだ。

 そんな中、「私が成し遂げてみせます」と名乗り出た人物、それこそが俊乗房(俊乗坊)重源だったんだ。

百花さん (小声で)あらら、ゆいまくんの名調子モードのスイッチが入っちゃったみたい。あんまり長くならないといいんだけど…

ゆいまくん 重源は当時61歳。宋(中国)に3度渡った経験があるといい、最新の技術にも明るく *、何ごとにも入念に段取りしてどんな困難があろうとも粘り強く実現させていくその手腕は、「支度(したく)第一俊乗房」とたたえられた人だったんだよ。

百花さん 61歳! 当時は今よりもずっと平均寿命が短かったのだろうから、かなりのお年寄りってことよね。

ゆいまくん 驚くのはまだ早いよ。61歳というのは東大寺再建のスタート時の年齢で、そこから25年、1206年に86歳で亡くなるまで、東大寺復興事業の最前線に立ち続けたんだ。津々浦々での勧進(かんじん、造寺・造仏のために人びとに勧めて寄付を募ること)活動、高い技術をもつ宋人の招聘、さらに、周防(すおう、現在の山口県)で行われた大仏殿のための木材の伐採の陣頭指揮などなど、実に精力的に活動を繰り広げたんだ。
 1185年に大仏の開眼供養、1195年に大仏殿落慶供養を経て、1203年には東大寺南大門の金剛力士像の造立にとりかかり、その完成後、東大寺復興がほぼなったことを記念する大きな行事(東大寺総供養)の開催にこぎつけたんだ。

百花さん ひょえー、重源さん、ついに成し遂げたんだ! 本当にミラクルなおじいちゃんだね。
 あれっ、東大寺南大門の金剛力士像がつくられたのは、1203年なのか… えっと、文殊院の文殊菩薩像の像内銘にも1203年の年が書いてあったんだよね。同じ年なんだね。これって、たまたま?

ゆいまくん いや、これは偶然とは思えない。
 東大寺南大門の金剛力士像は1203年の7月24日から10月3日にかけて、すでに完成していた南大門の中で制作されたんだ。かかった日数は、彩色などの仕上げまでを含めてわずか69日。それまで、大仏殿の脇侍や四天王像(いずれも現存せず)など巨像の制作で経験値を上げてきた運慶一門の実力のほどは、この時まさに最高潮に達していたんだね。
 金剛力士像は仁王像ともいわれ、2体で1組、口の形から阿形(あぎょう)像、吽形(うんぎょう)像というんだけど、快慶は運慶とともに阿形像の担当だった **。といっても、運慶は一派を率いるリーダーとして、2体の仁王像の進捗を監督しなければならなかっただろうから、いきおい阿形像は快慶の肩にかかる部分が大きかったと思われるんだ。
 一方、文殊院の文殊菩薩像に書かれた日付は、1203年の10月8日だ。

百花さん 像内に銘を書くことができるタイミングって、内ぐりが完成して、組み上げるまでの間ってことよね。全体の工程の中では、中盤くらいになるのかな。それが10月8日ってことは、文殊院の文殊菩薩像の造立は東大寺南大門の仁王像と同時並行で進められていて、どちらも快慶が重責を担っていたってことよね。これ、ヤバくない?
 快慶もさ、言えばいいのに。「両方ってエのは、ご勘弁ねがいたいでヤス。南大門の像をまずやっつけてしまうんで、文殊菩薩の方はチョイお待ちを〜」って。あ、快慶はそんなキャラじゃないか。

ゆいまくん …えーと、じゃあ、ここでちょっと重源の信仰について触れておくね。
 重源は自ら「南無阿弥陀仏」と名乗ったくらいだから、阿弥陀仏への信仰一筋かというと、決してそうではないんだ。重源は多彩ともいえるさまざまな信仰の持ち主で、文殊菩薩へ思いも並たいていのものではなかったんだ ***。
 実は重源は、五台山への巡礼を志したこともあったんだよ。

百花さん 重源さんは宋に3度渡ったことがあったのよね。五台山にも行ったのね。

ゆいまくん 重源にとって五台山巡礼は、入宋(にっそう)の大きな目的だったらしい。ところが、実際には五台山には到達できなかったようなんだ。

百花さん えっ、行けなかったの? …それはさぞかし無念だったろうね。

ゆいまくん 行けなかったことによって、さらに文殊の霊地、五台山を渇望する心は重源の中でいっそう高まっていったのかもしれないね ****。
 さて、話を1203年に戻すよ。
 20年以上の年月をかけて進めてきた東大寺再興の大事業も、いよいよクライマックス。正門である南大門にいよいよ仁王像が据えられるんだから、関係者にとってこれはとても大切な事業だったろうね、言うまでもないことだけど。
 しかし、文殊菩薩への深い信仰をもつ重源としては、東大寺大仏を中心とする仏国土をつくりあげるために、文殊の霊場は欠かせない、それがまだできていないって考えていたんじゃないかな。

百花さん なるほど。重源さんは、何かが欠けているぞ、文殊の聖地がないではないか、今つくらなくて、いつつくるのだって思ったんだね。そこで、東大寺の末寺になっていた崇敬寺に目をつけて、五台山文殊をまつろうとしたんだ。安倍寺別所のある丘陵地帯を五台山に見立てたってことかな。

ゆいまくん 重源にとって、これは東大寺再興事業の一環としての造仏になるわけだから、迫ってきた東大寺総供養の儀式を意識せざるをえない。つくるにあたっては、もっとも信頼を寄せている快慶にぜひ担当してほしい。ということで…

百花さん それで、2つのプロジェクトの時期は重なってしまい、どちらも快慶が大きな役割を担うことになっちゃったんだ。それじゃあ快慶としても、なんとかして信頼に応えたいって、頑張るっきゃないよね。

 


(注)
* 重源は自ら「入唐(実際には入宋)三度」と称した。1183年に九条兼実(当時右大臣)に面会した際に宋での見聞を詳しく開陳しており、また中国の新技術を自ら指導して東大寺再建に生かすなど、彼の活動の随所に宋文化の影響は見てとれる。

 ただし、重源の入宋自体、事実であったのか、慎重に考えるべきとする意見もある。

** 東大寺南大門金剛力士像は、阿形像は墨書銘から大仏師として運慶と快慶、吽形像は納入品の奥書から大仏師として定覚(運慶の弟ともいわれる)と湛慶(運慶の子)が中心となって造立されたと知られる。

*** 奈良時代に勧進によって東大寺大仏造立事業を進めた僧行基(ぎょうき)は、その死後、文殊菩薩の化身と広く信じられた。重源は行基を強く思慕しており、このことも重源の文殊信仰をいっそう強めたと考えられる。

**** 重源は、九条兼実に対し、五台山巡礼を志したが果たせなかったと述べている。当時五台山のある中国北部は北方民族がたてた金という国に支配されており、行くことができなかったというのである。
 ところが、重源は1185年の東大寺大仏への仏舎利奉納に際しての敬白文で、五台山で文殊の瑞光を拝したことを述べている。これは先の兼実への言葉と矛盾し、どう考えればよいのか、なかなか難しい。事実を曲げてまで、五台山行にこだわったとも考えられるが、そもそも仏前で事実と異なることを述べるということがあるだろうか。兼実とは、五台山に行けなかったかわりに訪れた天台山、阿育王山での奇瑞を多く語ったところで面会が終了してしまい、実は別の入宋時に五台山訪問を果たせていたということなのであろうか。重源の入宋に関しては、なお精査が必要と思われる。