6-7 像内には約50人の名前、1203年
ゆいまくん 文殊菩薩像の銘文はね、年月日のほかは、人名ばかりなんだ。僧俗あわせて50名くらいの人の名前が列挙されているんだよ。
百花さん たしか、三千院の脇侍の像にも銘文があって、年と、誰が何のためにこの仏像をつくったのかということが書いてあったのよね。それに対して、文殊院の像の銘文は、何のためにってところはなくて、かわりにたくさん人名が書かれているのね。それって、銘文の性質が違うってことなのかな。
ゆいまくん 像内に書かれた名前は、仏さまと縁が結ばれて、救われることを願った人たちなんだ。これを結縁(けちえん)といい、こうした形の銘文を結縁銘というんだよ。
ところで、たくさん書かれた人名の真ん中あたりに、ひときわ大きく「南無阿弥陀仏」の6文字が書かれているんだ。
百花さん 南無阿弥陀仏は、念仏の言葉よね。
ゆいまくん そうなんだけどね、実はこれも人名で、重源というお坊さんのことなんだ。重源は、平氏に焼かれた東大寺を復興させた、とても偉大な僧侶なんだよ。高校の日本史の教科書には必ず出てくるんだけど…
百花さん あ、そう…ね。そうよ、思い出した…かも。そういえば、出てきたような…
でも、自分自身に「南無阿弥陀仏」なんて、よくつけたものね。
ゆいまくん 重源は若い時、醍醐寺(だいごじ)という寺で修行をした真言宗の僧なんだ。阿弥陀仏への深い信仰から、自ら「南無阿弥陀仏」と名乗り、さらに信仰を同じくする者たちに「~阿弥陀仏」の名前(阿弥陀仏号、阿弥号)を授けていったんだ。快慶の「アン阿弥陀仏」も、重源から受けた名前なんだよ *。
百花さん そうすると、快慶は、仏師としては康慶の派に属し、信仰面では重源のグループの一員だったということね。そして、重源が中心になって進められた東大寺復興の事業に、康慶の門下として参加した…ということは、考えようによっては、快慶はその時代のど真ん中にいたってことよね。
で、この文殊院の文殊菩薩像の中には、重源と快慶の名前がある… これは、何か深い事情がありそうね。
銘文は、像のどのあたりに書かれているの?
ゆいまくん 頭の内側、右半分の面に書かれているんだ。
この像はヒノキの寄木造でつくられ、頭と体の中心部分は左右から2つの材を寄せてつくられているんだ。体の内部は黒漆でていねいに仕上げ、頭部内は素地(きじ、材を素肌のままにすること)とし、そこを綺麗にさらって、銘文が書かれているんだ。
百花さん 右半分というのは、向かって左側ね。あのへんだな。よしっ、透視~って、無理か。
銘文には50人くらいの名前が書かれているということだけど、重源、快慶のほかに、どんな人の名前があるの?
ゆいまくん 快慶のアン阿弥陀仏のほかにも、金阿弥陀仏や円阿弥陀仏など、阿弥陀仏号の人もいるし、漢字2字や「○○房」と3文字のお坊さん、また俗人では大江の姓をもつ人や女性か子どもとおぼしき名前も書かれているんだ **。ほんとうにさまざまな人たちが、仏縁を願ったんだね。
年月日については、建仁3年(1203年)10月8日と書かれていて、この像がつくられた時期や背景を考えるための重要な材料となっているんだ。
ところで、50人ほど書かれた結縁銘の中で、1人だけ、名前が2回書かれている人がいるんだ。
じゃあ、百花さんに問題だよ。この像の銘文に2度名前が登場しているのは、誰だと思う?
百花さん (小声で)また、突然問題が降ってきたよ。困るんだよね…
んーっとね、重源…かな。
ゆいまくん 残念! 正解はね、「安阿弥陀仏」、つまり快慶なんだ。どうして、快慶だけが2度書かれていると思う?
百花さん どうしてって…1度書いたのを忘れて、また書くように頼んじゃったとか。快慶、忘れんぼさんだったんだねって、そんなわけないか。実は快慶、ああ見えて自己顕示欲がむっちゃ強くて、「オレの名だけ2度書いとけ」みたいな。
ゆいまくん 快慶は信仰心の厚い、清らかな人として知られていたんだから、「自分だけが」なんて、言わないよ!
じゃあ、ヒントを出すよ。2度書かれた名前の1つめは銘文の前半(後頭部に近い方)に「巧匠安阿弥陀仏」、もう1カ所は最後の方に「アンア弥陀仏」(「アンア」は梵字)と書かれているんだ。
百花さん 書き方がちょっと違うのか。ということは… あ、「巧匠」っていうのは、優れた技を持つ仏師という意味だよね。だから、こっちは仏師としての記名で、「アンア弥陀仏」の方は結縁する人としてなんじゃないかな。どうだっ!
ゆいまくん 百花さん、すごい! 今日、とても冴えているね。文殊菩薩が知恵を分けてくださったのかもね。そう、「巧匠安阿弥陀仏」の方を仏師としての記名と考えると、この像の作者は快慶で確定ということになるね。
そうすると、次に気になるのは、誰が快慶にこの像をつくらせたのか、それは何を願ってのことかということだよね。
百花さん 銘文に中で、ひときわ大きく書かれているのは「南無阿弥陀仏」こと、重源なんだよね。そうすると、重源が信仰を同じくする快慶に造像を依頼し、阿弥陀仏号と名乗っている仲間たちの助力も得て、造像したということになるかな。
(注)
* 阿弥陀仏号(阿弥号)を名乗ることは、重源がはじめたことではなく、11世紀からすでにあった。重源の阿弥陀仏号の付与の特色は、彼らを同行衆(どうぎょうしゅう、どうぎょうしゅ)として勧進のために組織したところにある。
** 早くから重源に付き従った観阿弥陀仏は、姓は大江氏で、重源の甥であったという(「浄土宗開祖伝」)。重源自身は紀氏出身であるので、大江氏は重源の姉妹の婚姻先でもあろうか。銘文に登場する大江氏(大江信良など)も重源の親族かもしれない。
女性または子どもと思われる名には、土用(とよ)、乙王(乙はおそらく2番目の子どもであることを意味する)、牛王(ごおう)がある。
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