6-4 騎獅+4脇侍+飛行=五台山文殊
百花さん 五台山文殊? 五台山っていうのは、山の名前?
ゆいまくん 五台山は、中国北部の山西省というところにある山だよ。主要な峰が5つ連なるのでこの名があり、最高峰は3000メートルを越える。とても雄大なところらしいよ。
そこは古くから霊山とされていて、山ふところには多くの山岳寺院が開かれ、いつのころからか文殊菩薩の聖地とされるようになったんだ。
百花さん 文殊さまって仏教の菩薩さまだから、もちろんインドの発祥だよね。でも、中国の五台山というところに聖地ができちゃったんだ。本当は原産地はまったく別の場所なのに、なぜか遠く離れたところに「本場」ができちゃったみたいな。「目黒のさんま」的なアレかな。
ゆいまくん 「目黒のさんま」のたとえはどうかなあ。
文殊菩薩の霊地は清涼山(せいりょうざん)といって、この世界の北東の方にあるとされていて、それが中国の五台山のこととされるようになったんだよ。
百花さん たしかに、中国はインドから見れば北東の方だもんね。きっと昔の中国の信仰厚い人が、「ここに文殊さまがいらっしゃる。そうに違いない」って信じちゃって、文殊菩薩の聖地になっていったのね。
ゆいまくん 五台山文殊の信仰は周辺諸国へも伝わって、日本からもね、奈良時代に玄昉(げんぼう)、平安時代前期に円仁(えんにん)が五台山巡礼を果たした記録があるんだ。
ところで、五台山の文殊菩薩は、古くは、霊獣である獅子に乗った文殊菩薩が、たくさんの菩薩や眷属たちに囲まれて、説法をしているというイメージだったらしい。それがしだいに変化していって、脇侍の数は4人になり、それがチームになって空中を飛んで移動している形となったんだ。それはインドから五台山に飛来した姿であり、五台山から各地へ遊行(ゆぎょう、各地を巡って教えを広めていくこと)する姿ともされた。日本では、海を越えて救いに来てくれた姿として、「渡海文殊(文殊渡海)」と呼ばれたんだ。
五台山文殊への信仰は、唐の晩期に大いにさかんになり、10世紀前半の唐の滅亡とその後の戦乱時代をはさんで、宋の時代になるとその信仰は再び盛り上がっていったんだ。文殊院の文殊菩薩のようながい襠衣を着用した姿は、この宋の時代に登場したものなんだよ。
百花さん 五台山文殊の姿って、時代とともに変わっていったのね。
ゆいまくん もともと経典類に具体的に記述があるというものではなかったからね、変化していったんだね。
中国では文殊菩薩の持物は如意(にょい、長い柄と雲形などをした先端部分からなり、僧が法会などの際持つ)という仏具だったんだけど、こちらの文殊菩薩像が剣を持っているのは、日本に伝わってから加えられた変更なんだよ*。
百花さん つまり…文殊菩薩の霊地は北東の方にあるということ以外の決まりごとはなくって、それは中国の五台山のことだってなり、五台山文殊への信仰が高まっていき、その姿も変化していったんだ。それが日本に伝えられ、さらに変化形がつくられて…って。それじゃあ、どこまでも変わっていっちゃうね。そういうものなの?
ゆいまくん もちろん、文殊菩薩への深い信仰が核としてあるわけだけど、どんな場面としてあらわすのか、姿や脇侍はどうかなど、図像としての表現は時代や場所によって変わり続けていったんだ。けれども、変化し続けるという流れがあれば、他方ではその流れに区切りをつけていくこともおこってくるんだよ。特別な像、その像に触れずには彫刻史の流れを語れないほどの像が登場した時、それが画期をつくり、その像の影響は後世に長く残りつづけていったりもするんだ。
今目の前にある、この素晴らしい仏像。この文殊院の文殊菩薩と脇侍の像は、五台山文殊という1つのジャンルにおいて画期をなす重要な仏像なんだよ。
百花さん そっかー。画期的な仏像なんだね。さすが、国宝! だね。
(注)
*
文殊院像以前の五台山文殊(獅子に乗り、四脇侍を従えている)の例としては、高知の竹林寺の像や岩手の中尊寺の像などがある。竹林寺像(秘仏)は剣と蓮華の茎を持つが、上半身は条帛をつける(がい襠衣ではない)。中尊寺の像は、がい襠衣を着けるが、持物は如意である(剣は持たない)。文殊院像がつくられると、以後、がい襠衣で剣を持つ姿が五台山文殊の姿として定着していった(それ以後も条帛をつける姿の像もつくられてはいる)。文殊院像の後につくられた、がい襠衣で剣を持ち4脇侍を連れた五台山文殊の代表的な作例としては、奈良市の西大寺の本堂に安置されている像をあげることができる。
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