6ー14 文殊院文殊菩薩及び脇侍像 関係年表

 

7世紀後半ごろ 崇敬寺(安倍寺)つくられる。阿倍倉梯麻呂の創建という。
7世紀 文殊院内に今も残る東古墳、西古墳がつくられる。西古墳が阿倍倉梯麻呂の墓か。
11世紀半ば この頃までに崇敬寺は東大寺末寺になる。
1079年 崇敬寺僧暹覚が別所を設ける。
1121年 重源、生まれる。
1129年 崇敬寺の僧永尋死去。永尋は法華経と念仏の行者で、文殊菩薩への信仰もあつく、丈六釈迦像、文殊像などに向かって亡くなる。
1133年 重源、出家し、醍醐寺に入る。
1167年 重源、入宋(翌年帰国) *重源は3度の入宋を果たしたといい、とするならば、ほかに2回中国に渡っていることになるが、その年次についてはよくわかっていない。

1181年(治承4年12月) 平氏による南都焼打ちによって、東大寺、興福寺焼亡(治承4年=1180年だが、12月は現在の暦に直すと1181年1月)
1181年(治承5年8月) 重源、東大寺の勧進による再建責任者に就任
1183年(寿永2年4月) 運慶発願の法華経書写はじまる(6月完成)。快慶、これに結縁(快慶の名前の初出)
1183年 このころから重源が阿弥陀仏号を与えはじめる。
1185年(文治1年8月) 東大寺大仏開眼供養
1189年(文治5年9月) 快慶、弥勒菩薩立像を造立(伝来する最古の快慶作仏像)。古写真から興福寺に伝わったことがわかっているが、現在はボストン美術館の所蔵。納入品に「仏師快慶」と署名
1192年(建久3年11月) 快慶、醍醐寺弥勒菩薩坐像をつくる。後白河法皇追善のための像か。銘文に「巧匠アン阿弥陀仏(アンは梵字)」と署名
*以後、快慶の銘記は「巧匠アン阿弥陀仏」とするものがほとんど(法橋になるまで)
1195年(建久5年12月) 東大寺中門二天像の造立はじまる(建久5年=1194年だが、12月は1195年1月)。快慶は東方の多聞天の担当仏師となる(現存せず)。
1195年(建久6年3月) 東大寺大仏殿落慶供養。功労者に勧賞が行われ、運慶の子の康弁が快慶の譲りで法橋になる。
1196年(建久7年6月) 東大寺大仏脇侍の造立はじまる。快慶は法橋定覚とともに観音像の担当となる(現存せず)。
1196年(建久7年8月) 東大寺大仏殿四天王像の造立はじまる。快慶は広目天担当となる(現存せず)。
このころ 快慶、八葉蓮華寺阿弥陀如来像をつくる。納入品に明遍、慧敏の名あり。
1202年(建仁1年12月) 快慶作の東大寺僧形八幡神像の開眼供養。像内銘に明遍、慧敏の名あり。(建仁1年は1201年だが、僧形八幡神像開眼供養の12月27日は、今の暦では1202年1月)
1203年(建仁3年5月) 快慶、醍醐寺不動明王像をつくる(像内銘)。
1203年(建仁3年7月) 東大寺南大門金剛力士像の造立はじまる。快慶は運慶、定覚、湛慶とともに造立にあたる。10月、開眼供養。
1203年(建仁3年10月) 快慶、文殊院の文殊菩薩像を造立(像内銘に重源とともに快慶の名が書かれる。完成は1220年か)
1204年(建仁3年11月) 東大寺総供養。快慶、法橋にのぼる。(建仁3年は1203年だが、東大寺総供養は11月30日は、今の暦に直すと1204年1月)
*以後の快慶の仏像への銘記は、「巧匠法橋快慶」「巧匠法眼快慶」とするものが多い。
1204年(元久1年4月) 東大寺東塔をつくりはじめる。(1227年完成、現存せず)
1206年(建永1年6月) 重源、死去。

1208年~1210年の間 快慶、法眼にのぼる。
1219年 快慶、長谷寺の十一面観音像の再興に着手(同年10月完成、現存せず)
1219年 快慶作の半丈六釈迦如来像を高山寺本堂に安置。
1220年 文殊院の文殊菩薩像納入品奥書に、慧敏によって造立とある。この年に文殊菩薩及脇侍像、完成か。
1221年 高山寺の快慶作の釈迦如来像を加茂別所へ、さらに1223年に善妙寺に移す(寺、像ともに現存せず)。
*1223年に運慶作の盧遮那如来像などが高山寺に移入されたことに関連する措置と思われる。
1227年 この時までに快慶、死去(極楽寺阿弥陀如来立像納入品の記載より)
13世紀後半~14世紀はじめ このころまでに崇敬寺は安倍別所に統合される。旧地の伽藍は廃絶

1496年 三条西実隆が崇敬寺(現文殊院)を訪れる。日記『実隆公記』によれば、当時はまだ文殊堂は本堂ではなく、満願寺とよばれていたらしい。
*本堂は知足院ともいい、本尊は現在文殊院本堂に安置されている大日如来像か。
1504年 崇敬寺、妙楽寺(多武峯寺、現談山神社)の攻撃を受け、炎上する。
1563年 崇敬寺、兵火(松永久秀軍か)のために一山焼亡。文殊五尊像のうちの大聖(最勝)老人像および獅子が失われる。
1571年 崇敬寺文殊堂が再建される。(ただし、1665年に再びお堂をつくっていることから、この時の堂は仮堂のようなものであったか)
1585年 文殊菩薩像の光背を補作
1607年 大聖老人像を再興(仏師は宗印)、獅子も同時期か
1665年 文殊堂再建(1678年に供養が行われる)。その後薬師堂や大日堂がつくられて、寺観は整うが、この間、文殊堂が事実上の本堂となっていったらしい。

19世紀前半 このころ、崇敬寺衰退
19世紀後半 このころ、寺名を文殊院とする。
1901年 文殊院本尊の文殊菩薩及脇侍像(ただし後補の大聖老人像を除く)を国宝指定(戦前の制度、現在の重要文化財)
1930年 文殊菩薩及脇侍像を修理。大聖老人像から墨書銘発見(1607年の年などが書かれる)
1972年 文殊菩薩及脇侍像を修理
1973年 文殊菩薩像の納入品を重要文化財の附指定とする。
1973年 文殊院本堂奥に大収蔵庫を接続して設け、文殊菩薩及脇侍像を移し、安置する。
2010年 大聖老人像を木像住吉明神立像の名称で重要文化財の附指定とする。
2013年 文殊菩薩及脇侍像を国宝指定 
*大聖(最勝)老人像と納入品については、国宝の附(つけたり)指定とされる。