6-13 ゆいまくんの追加講義-勧進と結縁、そして同行衆の活躍

 

 勧進とは、仏との縁を結ぶきっかけを説き、仏道に導くことをいうんだ。従って、念仏などを勧める行為も勧進といえる。しかし一般的には、勧進というのは、寺院や仏像の造立や修理にあたって金銭を出して活動を支えるよう人びとをうながし、そうした善なる行為(作善、さぜん)に導くよって仏縁を結ばせるこというんだ。中世にはこの方式に頼ることで寺院の宗教活動を維持することが広く行われるようになっていったんだ。
 勧進の活動を担った宗教者のことを、勧進聖(ひじり)という。南都焼打ち後、重源が「大勧進」として再建を任され、幅広い層からの喜捨を受けて、東大寺の再興を成し遂げたことは有名だよね。

 一方、結縁は、仏と衆生が縁を結ぶことをいうのだけど、特に、勧進の呼びかけに応えて金銭を負担することで、仏さまとの縁を結ぶことができるという意味で使われることが多くなる。図式化するなら、資金を集める側が勧進、それに応じて仏との縁を求めるのが結縁ということだね。この時、結縁のあかしとして、自分が支援してつくられた仏像の内部に自らの名前を直接墨書してもらったり、紙に名前を書いて納めてもらったりということも多く行われたんだ。
 当時の人たちは、仏像の内部を、あたかも異次元へと通じる入口のように感じていたのかもしれないね。その通路は仏の世界へと通じていて、入口である仏像内部に名前が書かれたり、書かれた紙が納められたりすることで、自分自身が仏の世界と直接結びつくことができたという実感が得られたのだろうね。信仰を同じくする仲間とともに名前が書かれたり、造像の活動にも加わることができたりすれば、その思いはさらに強められたことだろう。
 それ以前の時代には、仏の世界に近いところにいられるのは、ほとんどの場合貴族や高位の僧など一部の特権的な人びとだけで、それ以外の人たちは門の外から仏像の姿を想像して手を合わせることくらいしかできなかったのだろうね。それが、勧進と結縁という考え方の広まりとともに、仏像と自分の距離はぐっと近くなり、仏とつながれるという感覚も持つことができるようになっていったのだろう。重源は大仏を再興し、東大寺の復興を担ったけど、それ以上に、仏と人びとを隔てていたものを取り去ったということにおいて、ものすごく大きな役割を果たしたって言えるんじゃないかと思う。

 文殊院の文殊菩薩像の像内に書かれた人びとの名前からも、さまざまな人たちが仏とつながろうとしたことがよくわかる。もちろん宗教者が多いが、「沙弥」とついているまだ正式な僧になる前の修行中の人も見える。また、俗名の人もいるし、女性名あるいは童名と思われる名前もある。
 特に目を引くのは、阿弥陀仏号を名乗っている人物が何人もいることだね。彼らは重源からその名を与えられ、同行衆と呼ばれて、重源の活動を支えた人たちだ。
 その中から2人、紹介しよう。
 まず、金阿弥陀仏。彼は、醍醐寺不動明王像(快慶作、1203年5月の墨書がある)や東大寺南大門金剛力士像をはじめ、重源、快慶関係のいくつもの仏像に結縁し、また、周防別所関係の文書(東大寺文書「周防国阿弥陀寺領田畠注文」、1200年)に12人の念仏衆の中の1人として、その名前が見える。
 重源は東大寺再興のために近畿地方や山陽地域にいくつもの拠点を別所として構えた。中でも、材木調達の場となった周防の別所(今も阿弥陀寺として存続)の経営はとても重要だったんだ。というのも、大仏殿の再建に用いるヒノキの巨材の確保に重源は非常に苦労し、当初、吉野や伊勢から得ようとしたが、不調に終わった。この時代、古代以来の伐採のツケのために、都に近い地域では良材は極めて得にくくなっており、また、吉野のある奈良県地方は興福寺が、伊勢は伊勢神宮の遷宮のためにと、すでにつくられていた縄張りを、さすがの重源も突破することはできなくて、周防国(今の山口県)で探すことになったんだ。金阿弥陀仏は、遠く周防の地までおもむき、重源の活動を支え続けた同行衆なんだ。
 次に円阿弥陀仏。彼も、この文殊院の像だけでなく、醍醐寺不動明王像や東大寺南大門金剛力士像の銘文にその名を残しているが、醍醐寺像では「御眼巧匠円阿弥陀仏」と書かれており、玉眼をつくる際の技術を保持する者でもあったとわかるんだ。

 阿弥陀仏号を与えられた人びとは、念仏をもって、あるいは技術によって、また、勧進のリーダー、荘園の管理など、さまざまな分野にわたって陰日向なく重源を支えた。彼らの名前は仏像の中に結縁銘としてとどめられ、その結果として、我々はさまざまな活動を通じて信仰に生きた中世の人びとの姿を思い描くことができるんだ。