6-10 慧敏と明遍によるフィニッシュ

 

百花さん 1203年に結縁銘が書かれた時点で、文殊菩薩像の制作はかなり進んでいたはず。なのに完成まではいかずにストップとなったということよね。としたら、納入品に書かれている1220年までの間、未完成の像はどうしていたのかな。

ゆいまくん どうだろうねえ。どこかに片付けられ、歴史の表舞台に再び呼び戻される日をひたすら待っていたのか。あるいは、快慶のお弟子さんの1人が担当となって、脇侍像を粘り強くつくり続けていたのかもしれないね * 。

百花さん いつか日の目を見ることを信じて、残されたお弟子さんがこつこつと造像を続けていたかもって、映画の渋~いワンシーンみたいね。何か、目に浮かぶなあ、そういう場面。でも、本当のところはわからないんだよね。
 でもさ、最後には完成の日を迎えることができたんだね。
 完成に導いたお坊さん、慧敏だっけ? どんな人なのかな。あと執筆の空阿弥陀仏っていうのも気になる。「阿弥陀仏」ってつくってことは、重源さんと関係があるのかな?

ゆいまくん 空阿弥陀仏は明遍(みょうへん)という僧で、慧敏(恵敏とも)はその甥になるんだ。

百花さん 2人は叔父、甥の間柄なのね。

ゆいまくん 慧敏は東大寺僧で、1187年以来、伝統あるいくつもの法会に出席して、重要な役割を果たしていることが知られていて、学識高い優秀なお坊さんだったみたいだよ。重源との関係は、残念ながらよくわからない。
 明遍もまた東大寺僧として重要な法会において大きな役を勤めていたんだけど、のちに南山城(京都府南部)にかつてあった光明山寺(東大寺別所)へ、さらに高野山へと移ってしまう。僧として高い地位を求めることを嫌い、遁世(とんぜい、とんせい)僧としての道を選んだんだ。
 明遍は、世俗での栄誉を望む僧が多いことを憎むあまり、僧として高い地位にのぼった兄弟と絶縁したという話も伝えられている(『元亨釈書』)けど、実際には甥の慧敏をはじめ血縁関係のある人たちとともに、快慶作の仏像に結縁しているんだ **。

百花さん 明遍、慧敏と快慶の間にもつながりがあったのね。明遍と重源の間はどうなの?

ゆいまくん 明遍が空阿弥陀仏と称した経緯はわからないけど、重源が信仰を同じくする仲間に阿弥陀仏号を授けていることは広く知られていたから、自らも同様な名乗りをしたのは、重源に対する心の距離の近さのあらわれといえそうだね。俗世から離れたい明遍と民衆の中へ積極的に繰り出し、勧進を行っていった重源、2人の行動は一見真逆のようだけど、我欲を捨てて生きることに徹するということでは共通していて、通じ合っていたんじゃないかな ***。
 ところで、この納入文書の奥書の空阿弥陀仏の署名の前には、「病比丘(やまいびく)」とあるんだ。比丘は出家者のことだよ。

百花さん じゃあ、明遍は当時、病気がちだったのね。

ゆいまくん この時明遍は70歳代後半で、その数年後には亡くなっているんだ。老いて病気にもなり、迫り来る死を前に、重源亡きあと未完成のままに残されていた五台山文殊の像のことを気にかけていたんじゃないかな。あえて「病比丘」と記入した明遍の思いが、行間から伝わってくるような気がするんだけどね、どうだろう。

百花さん だから、甥の慧敏にはたらきかけて、その結果、ついに像が完成に至ったって、そういうことかな ****。

 


ゆいまくん じゃあね、そろそろ、それ以後の話に進むよ。
 戦国時代には、崇敬寺(安倍別所)も戦火に巻き込まれてしまい、文殊菩薩、于闐王、善財童子、仏陀波利の各像は救い出されたものの、大聖老人像と文殊菩薩を乗せている獅子は失われてしまったんだ。現在の大聖老人像は、銘文によって江戸時代初期に補われたものとわかっているんだ。獅子像もおそらくその時の作だと思うよ。

百花さん じゃあ、大聖老人像と獅子は、快慶とそのお弟子さんの作品ではないのね。
 たしかにこの獅子、真に迫っていないっていうか、大きい割に迫力ないなーってちょっと思っていたんだけど、獅子に悪いような気がして黙っていたんだ。そう、後補なのね。快慶とお弟子さんがつくった当初の獅子は、もっと引き締まった表情だったかも。でもこのちょっとゆるい顔も、文殊菩薩さまの表情を引き立てているから、これはこれでいいかもね。
 大聖老人像は、向かって左側の2体のうちの後ろ側に立つ、仙人っぽい人ね。

ゆいまくん この像からは1607年の年と、作者名として宗印の名前が見つかっているんだ。宗印は豊臣秀吉から京都の方広寺の大仏の制作を命じられたこともあり、桃山時代から江戸時代初期を代表する仏師なんだよ。
 それでも、快慶一門のつくったほかの脇侍像と比べてしまうと、大聖老人像はややもっさりとしていて、出来映えは今ひとつって思っちゃうかもしれないね。でも、当初像が失われた穴をよく埋め、五台山文殊の群像の一角を立派に担っていると思うよ。
 
百花さん これらの像は、中国の五台山に飛来したところでもあり、五台山から出動して広く教えを伝えに行くところでもあるということだけど、つくられてから現在までの長い時間も力強く越えて、今ここにあるってことね。

 


(注)
* 東京の塩船観音寺の本尊、千手観音像は法眼快勢が1264年に制作し、その後、弟子の定快が眷属(けんぞく)の二十八部衆像を長い時間をかけて完成させたことがわかっている。文殊院の像に近い例といえるかもしれない。快勢、定快は、その名前から快慶流の仏師であったかもしれない。

** 明遍の父は、後白河院の側近で、平治の乱で命を落とした藤原通憲(信西)。兄弟には、唱導(抑揚をつけ仏法を説く)の名手として知られた澄憲(ちょうけん)や、東大寺別当、東大寺東南院主、醍醐寺座主を歴任し、重源が強い信頼を寄せていた勝賢などがいる。慧敏は澄憲の子である。
 快慶作の仏像で、明遍、慧敏がともにかかわってつくられたものとしては、大阪の八葉蓮華寺阿弥陀如来像(1195年~1199年ごろか)と東大寺僧形八幡神像(1201年)がある。八葉蓮華寺阿弥陀如来像では、明遍書写の阿弥陀経など一包みの納入品を慧敏が整えている。東大寺僧形八幡神像では、像内脚部に明遍、慧敏の名がともに書かれている。

*** 重源は東大寺再建を支えるために各地に別所を設立したが、その1つに高野別所があった。一方、明遍は後半生高野山の蓮華谷に住み、聖(ひじり)とよばれ、遁世を旨とし、また勧進をもっぱらとする宗教者たちのリーダー的存在だったらしい。また、重源と明遍は、念仏についての考え方にも共通点があるとされる。こうした物理的、精神的な距離の近さから、重源と明遍は接点を持ち、重源の活動を明遍がさまざまに支えていた可能性もあると思われる。

**** ここでは、文殊院の文殊菩薩及び脇侍像の造立には、初期には重源が中心になり、のちに慧敏がバトンを受け取る形で完成させたという流れで記述しているが、当初から慧敏が願主として造像の中心であったとする考えもある。慧敏の文殊信仰をその法脈から読み解く論考も出されている。その場合、像内銘の重源(南無阿弥陀仏)の名は造像の中心というよりは結縁者としてのそれとしてとらえるべきものとなり、慧敏が東大寺僧として東大寺再興の儀式にあわせて造立を志したが、何らかの事情で完成は遅れてしまったということになろう。
 なお、『南無阿弥陀仏作善集』には、この文殊菩薩像について何ら触れるところがない。このことからも、重源はあくまで一結縁者にすぎず、はじめから慧敏発願として扱うべきとする考え方がある。その一方で、『南無阿弥陀仏作善集』がつくられた1203年時点では、この像はそもそも完成していなかったので記載がないだけであり、文殊菩薩像造立への重源の役割を過小評価すべきでないとの意見もある。
 文殊菩薩像と脇侍像の完成をいつと見るかについては、文殊菩薩像に関しては像内の1203年の年紀を重視し、その時期の快慶作品と比較検討からも、1203年からほどなく完成したものとし、脇侍像については、彩色や衣文の処理に快慶晩年の像との共通点を見いだして、1220年頃であると考える研究者が現在のところ多いように思われる。
 重源の果たした役割の多寡、完成まで長時間かかった理由、快慶と弟子の分担が像の姿から読み取れるか、五尊の実際の完成年をいつととらえ、快慶仏の作風の変遷と関係づけて論じることができるのかといったことが、今後の課題であると思われる。