5-2 運慶は消去法で選ばれた?

蛭ケ島公園に立つ頼朝と政子の像
蛭ケ島公園に立つ頼朝と政子の像

 

百花さん 北条時政は源頼朝の妻の父ということだけど、どうして頼朝は伊豆在住の武士の娘と結婚することになったんだっけ。

ゆいまくん 頼朝は伊豆にいたんだ。流人(るにん)としてね。

百花さん 流人?

ゆいまくん 平治の乱ってわかる? 頼朝の父、源義朝と平清盛とが都を舞台に戦ったんだ。勝った平氏は、はじめて武士出身として政権を担当するまでになる。これは日本史の中でも、とても重要なターニングポイントなんだよ。(小声で)絶対、学校で習っているはずなんだけど…
 敗れた源義朝は東国に落ち延びようとするが、その途中、裏切りによって殺されてしまうんだ。頼朝は父とはぐれたところを捕まり、命は助けられたものの伊豆に流される。流人というのは、地方に移され、常に監視され、行動の制限を受けながら生活しなければいけない状態のことだよ。

百花さん 「流される」ってそういうこと? 歴史の授業で「政争に敗れて流された」って話、時々出てきたけど、てっきり、筏かなんかで本当に海か川に流されちゃう罰かと思っていたよ。もう、そういう絵が脳内にできてた。

ゆいまくん …

百花さん そんなに呆れた顔をしないでよ。ちょっと勘違いしただけじゃない。それに、きっと同じように思ってる人、多いと思うよ。

ゆいまくん (小声で)いや、そんな間違いをする人、そうそういないと思うけど…

百花さん とにかくっ! 頼朝は流されて伊豆に来たのね *。その時、頼朝は何歳くらいだったの?

ゆいまくん 伊豆に流されたのは1160年のことで、当時頼朝は14歳だったんだ。昔は成人するのが今よりずっと早くて、頼朝はその時すでに朝廷の官位を持っていたし、平治の乱にも参加していたんだ。
 頼朝はそれ以前に母と死別していてね、戦いに敗れて父も失い、流罪とされた。10代前半の少年にとって過酷すぎる現実だよね。そして、20年もの歳月を伊豆の流刑地で過ごしたんだよ。

百花さん でも、政子と会い、結婚することができたんだね。よく親の時政は許したね。
 そもそも北条氏ってどんな一族だったの?

 

 

ゆいまくん 北条氏は、桓武平氏の流れをくむ一族といわれているんだ。とするならば、平清盛とは遠い親戚ということになるけど、その系譜はあまりよくわかっていない。現在のところ、伊豆の国府の役人の家に、軍事をもって朝廷に仕えてきた中央の下級貴族が婿として入り、成立した家系が北条氏だと考えられているんだ。また、この一族は奈良の興福寺とも接点をもっていたらしい **。
 頼朝との関係でいえば、監視する側ということになるね。
 ところが、娘の政子が頼朝と夫婦にという話になった。頼朝としては、時政の後援を期待して、流人生活から脱するチャンスを得たということになるけど、時政にとっては、どうだろうね。唐突に人生の岐路に立たされ、どうすべきか、さぞ迷っただろうね。

百花さん 頼朝を婿として迎え入れて、ともに平家打倒に進むか、それとも今までどおりに平氏政権の末端として頼朝の監視を続けるべきか。こりゃ、運命の選択だね。間違えば、自分ばかりか、一族全員「アウト!」ってなっちゃうだろうし。私だったら、こんな決断、絶対ムリ。ケーキにするかアイスにするかだって決められないのに。すっごく悩んで、結局両方にしたけど(てへへ)。

ゆいまくん 結局、北条時政は頼朝を押し立てて進む道を選び、鎌倉幕府の成立に力を尽くしたんだ。でも、その代償も大きくて、時政は息子の1人を合戦で失ってしまったんだよ。
 ところで、鎌倉を本拠地と定めた頼朝は、父、義朝の菩提を弔うため、鎌倉初の本格的大寺院、勝長寿院(しょうちょうじゅいん)をつくりはじめた。この時、本尊の丈六阿弥陀仏造立のために奈良から呼び寄せた仏師が成朝(せいちょう、じょうちょう)だ。造営は順調に進み、1185年の10月に完成をみている(寺、仏像とも現存していない)。

百花さん 成朝って、康慶や運慶と同じ奈良仏師で、えっと確か…成朝の方が奈良仏師の本来のあとつぎじゃなかったっけ。

 

 

ゆいまくん よく覚えていたね。当時、仏師の系列は院派、円派、奈良仏師に分かれていて、成朝は奈良仏師の正系を継ぐ仏師だったんだ。
 頼朝が勝長寿院をつくって父をまつったのは、そのあとを正しくついでいるのは自分なんだというアピールもあったんだろうね。源氏の正嫡たる自分にふさわしい仏師として、奈良仏師嫡流の成朝を起用したんだと思うよ。

百花さん 頼朝が勝長寿院をつくり、仏像をつくらせていく様子は、鎌倉幕府成立に尽力した武士たちにも影響を与えたんじゃない? 時政も、自分の一族のためにお寺、仏像をつくりたいという願いを強く持つようになったのかもね ***。

ゆいまくん それは大いにあり得ることだね。
 勝長寿院の完成の翌月、つまり1185年の11月、北条時政は頼朝によって京へと送り出される。この時平氏はすでに西海において滅亡していたが、頼朝は今度は平氏打倒の功労者であった弟、源義経と対立する事態を迎えていたんだ。そうした中、頼朝は後白河法皇をはじめとする京の朝廷の人びとと利害を調整するという、とても重要な使命を時政に託したんだ。

百花さん 荒くれ者の多い鎌倉武士の中にあって、北条時政は京都の政権の人たちともわたりあえる貴重な人材として、頼朝から頼りにされていたんだね。
 でも、このお役目はとても難しそう。時政さん、大丈夫だったのかな。

ゆいまくん 翌年(1186年)4月、時政はみごとに任務を果たし、鎌倉に帰還する。
 そして、その年の5月、運慶が時政から依頼された仏像をつくりはじめているんだ。
 さて、そこでだ! なぜ時政は運慶に造仏を任せたのか。

百花さん なぜって、…たまたま? 時政は京都に行ったんだよね。そこで偶然会って、「君、仏像つくってるの? 運慶くんっていうんだ。じゃあ、ボクの仏像、彫ってみない?」、なーんてね。
 あっ、北条氏って興福寺とも関係があったらしいんだよね。じゃあ、興福寺で紹介してもらったとか。

ゆいまくん うん、その可能性はある。運慶は奈良仏師の出身で、父の康慶は南都焼打ち後の興福寺南円堂の造仏の担当になっていたしね。

百花さん ん、でも変だね。勝長寿院の仏像はもう完成しているわけだから、仕事が終わって手があいた成朝に依頼した方が早くない? 「次はこっちもヨロシク」みたいな感じで。なんでそうしなかったのかな。

ゆいまくん ここで大切なことは、成朝は奈良仏師の正系を継ぐ仏師、一方、康慶やその子の運慶は同じ奈良仏師でも傍系と考えられているという点だよ。

百花さん 時政にとっては、由緒正しい仏師でない方をわざわざ選んだってことか。何でかな。不思議~。
 …あっ、わかっちゃったかも。頼朝に、「時政のヤツめ~、オレと張り合おうとしているのかー」って思われたら、面倒なことになるかもしれないもんね。実の弟の義経も、そんな感じでうとまれていっちゃったんだよね。時政だって、頼朝の義父だとはいっても、疑われたらヤバいぞって考えて、成朝と同じ系列だけど傍系の運慶を選んだんだ ****!
 時政って、なかなか賢くて慎重な人だったんだね。だからこそ、難しい朝廷との折衝も乗り切ることができたんだ。単に頼朝の妻の父だったから、歴史に名を残したっていうだけでなかったのね。

ゆいまくん 仏師の選定だけじゃないよ。頼朝の勝長寿院の仏像は丈六、それに対して願成就院の阿弥陀如来像は半丈六。また、場所についても、鎌倉に土地をねだってつくるのでなく、故郷の伊豆を選んだ。こうしたことも、彼の思慮の深さゆえかもしれないよ。
 時政は頼朝との関係から、消去法的思考で運慶を選んだわけだけど、これによって運慶は仏師としての技量をまさに開花させることになるんだ。これから見に行く願成就院の仏像は、運慶の飛躍の結晶ともいえる、まさに記念碑的な作品なんだよ。

百花さん つまり、とってもすごい仏像ということね。うん、とっても楽しみになってきた!

 


(注)
* 頼朝の流刑地は蛭島(蛭ケ島、蛭ケ小島)といい、韮山駅の東数百メートルのところとされ、現在では公園として整備されている。ただしこれは江戸時代の考証によるもので、本当にこの場所であったのかはよくわからない。

** 韮山駅周辺には現在も中条、南条といった地区名があり、上北条、中北条、下北条という地名もあったらしい。北条氏はこの地を本拠として、その地名を自らの苗字としたのであろう。
 願成就院北西の北条氏邸跡(史跡)からは、かわらけや中国製陶磁器が出土している。発掘の成果から、北条氏がここに館を構えたのは12世紀中ごろで、関東の武士団として大勢力とまではいえないが、この地域随一の有力者であり、中央ともつながりも持っていたと考えられている。
 北条時政と興福寺の関係については、古系図(北酒出本『源氏系図』)によれば、悪僧とよばれ、興福寺で権勢をふるった信実(しんじつ)は、時政の従兄弟(時政のおばの子)であったとされる。

*** 勝長寿院の建材の切り出しは伊豆の狩野川上流の山で行われ、頼朝も立ち会っている(1185年2月)。時政は頼朝の寺院造営に刺激を受け、氏寺の建立に向けて大いに参考としたのではないだろうか。

**** 当時、奈良仏師では唯一康慶が僧綱位(法橋)を得ており、成朝は無位であった。康慶は傍系ながら成朝より年上で、早くからこの派の中で頭角をあらわしていたのであろう。時政の心情としては、頼朝と同じ系列の仏師を選びたい。しかし、正系の成朝に依頼することははばかられ、かつ成朝が無位であるので、傍系であっても法橋となっていた康慶を指名することは避けるべきという判断がはたらき、結果として運慶が選ばれていったとの推測が可能である。
 一方で、康慶はそれ以前からのちの鎌倉幕府と深く関係する人物とのつながりをつくっていたことが知られる(静岡県、瑞林寺伝来の地蔵菩薩像銘文)。康慶のサイドから時政へのアプローチがなされた可能性も考えられる。
 なお、願成就院の仏像がつくられはじめた1186年の時点で時政は49歳、運慶の生年は不明だが、12世紀なかばの生まれと考えられているので、この時30代の半ばころと思われる。