4-10 ゆいまくんの追加講義ー南都焼打ち後の興福寺の仏像再興


 興福寺復興計画がどう進んだかは、主として次の3つの史料によって知ることができるんだ。
 まずは九条兼実の日記、『玉葉』。九条と名乗っているけど、摂関家、藤原氏の人だよ。のちに藤原氏全体のリーダー、つまり氏長者(藤氏長者)にもなる歴史上たいへん重要な人物だけど、南都焼打ちの際にはまだ氏長者ではなく、後白河院との関係も親密なものではなかった。しかし、長く高い地位にあり、日記から当時の朝廷の動きを知ることができるんだ。
 次は吉田経房の日記、『吉記(きっき)』。三千院の往生極楽院や阿弥陀三尊像に関しても重要な手がかりを提供してくれている史料だよ。経房は摂関家の親戚の家柄で、位はそう高くはなかったけれども、朝廷の決定を詳しく知ることができる重要なポジションにいたので、南都復興に関してもさまざまな情報が得られて貴重なんだ。
 そして、最後が『養和元年記』。編者は誰なのかは残念ながら不明だけど、興福寺僧による記録で、伝えられた平清盛の死の様子や、興福寺復興についてどんな議論が交わされたのかが書かれている。
 これらの史料を分析し、また総合的に考えることで、1181年からはじまった興福寺再興がどのように進められたか、知ることができるんだよ。


 これらによると、この年の6月15日、造営にあたる役人が任命されるとともに、再建するお堂の責任分担が決められたことがわかる。金堂は公家沙汰(国家による再建)、講堂・南円堂・南大門は氏長者沙汰(藤原氏のリーダーの責任による再建)、食堂は寺家沙汰(興福寺自身による再建)、東僧坊は氏知識(藤原氏一族による再建)という分担となったんだ。
 ついで7月8日には、仏師の割り当てが決められた。金堂は法眼(ほうげん)明円、講堂は法印(ほういん)院尊、食堂は成朝、南円堂は法橋(ほっきょう)康慶となったんだ。
 法印、法眼、法橋の3つを僧綱位という。本来は僧尼をとりしまり諸寺を監督するという非常に高い僧の位で、これを仏師に対して称号のように用いて与えることは、平安時代中期の定朝にはじまる。それが前例となって、定朝の流れを汲む三派の仏師が朝廷や貴顕による寺院の造仏に功績があった場合に、僧綱位が与えられるようになっていったんだ。


 ところで、定朝の流れを汲む仏師は、院派、円派、奈良仏師という3派に分かれていた。この当時は院派が優勢で、興福寺再興造仏の分担を決めた決時点では、最高位の法印を与えられているのは院派の院尊だけ。奈良仏師は院派・円派に比べると劣位にあり、その嫡流である成朝は無位(僧綱位が与えられていない)で、奈良仏師としては唯一僧綱位にあったのが法橋となっていた康慶だった。康慶は弟子筋ながら、成朝よりもかなり年長で、早くから奈良仏師の中で頭角を現していたのだろう。
 それに対して成朝は、当初の分担計画では名前があがらず、本人の訴えによって食堂大仏師にすべりこむことができたんだ。この時、成朝の訴えを援護したのが一門の康慶ではなく、円派の明円であったことがわかっている。当時の仏師たちの一筋縄ではいかない複雑な関係性がかいま見られて、興味深いね。