3-3 藤原清衡の願い、そして金色堂の覆堂の中へ
百花さん 金色堂は…この緩やかな坂の先? あ、この風景、知っている! 写真で見た覚えがあるけど、でも、見えている建物は新しくて、地味な感じね。あれが金色堂…じゃないよね。
ゆいまくん 金色堂の覆堂(おおいどう)で、金色堂はその中にあるんだ。覆堂は、金色堂を保護する鞘(さや)のような役目をしているので、鞘堂ともよばれているんだよ。
百花さん 金色堂は別の建物の中で守られているのね。
ゆいまくん 創建からしばらくの間、金色堂はほかのお堂と同じように外に建ち、雨風にさらされていたんだ。のちにこれを保護するため、木造で覆堂がつくられた。このかつての覆堂は今は役割を終え、境内の西に移築されていて、見学が可能だよ
*。金色堂を守るために、東北地方の厳しい気候に耐えて何百年も立ち続けた旧覆堂のことを、金色堂に劣らず尊く美しいとおっしゃる方もいるんだ。
旧覆堂にかわって20世紀後半(1965年)に耐火式の新覆堂がつくられ、金色堂はその中に納められているんだよ。
百花さん 中尊寺をつくり、金色堂を建てたのは、奥州藤原氏初代の藤原清衡なのね。そのことと、今話を聞いた彼の壮絶な前半生は、関係があるのでしょうね。
ゆいまくん 2つの戦争の痛手から、清衡は果敢に立ち上がり、歩み出していったんだ。彼がめざしたのは、悲惨な戦争を繰り返さないこと、平和で豊かな奥州を回復することだったんだ。そのために仏の加護を願い、それが中尊寺をはじめとする仏教都市・平泉の建設の原動力となっていったんだろうね。
清衡にはじまる奥州藤原氏は、3代にわたって栄えていくことになる。2代目、3代目も寺院を建立するなどして平泉の文化の発展につとめたけど、その基礎を築いたのは何といっても初代の清衡なんだ。
平和な奥州の実現のためには、中央からの介入を再度招くようなことがあってはならない。そのために清衡は、摂関家に奥州特産の馬を贈るなどの手をうっていく。その効果もあってか、この時期陸奥守となって下向してきた貴族は、かつての源頼義、義家のように強引に介入してくることはなかった ** 。
清衡はしだいにその地歩を固めていき、ついに1つの重大な決断をするんだ。それはみずからの館の移設だよ。彼の居館は奥六郡の1つである江刺郡にあった豊田館(とよだのたち、現在の奥州市江刺岩谷堂にあったとされる)で、ここから25キロくらい北だったんだけど、それを関山丘陵の南側、つまり平泉へと移すことにしたんだ。清衡は、それまでの奥六郡にとどまらず奥州全体を治めることを目指して、拠点を奥六郡の外側へと進めたわけだね。
さらに清衡は、奥州を南北に貫く街道を整備する。これは坂東(今の関東地方)との境である白河の関から津軽の海岸の外浜(そとのはま、外ヶ浜とも)に至る長大な幹線道路で、その道の1町ごとに塔婆を建て、金色の阿弥陀仏の画像をまつったんだ。今の福島県から青森県まで、すなわち陸奥国のすべてを自分の手で治めるという宣言だね。そして、その道に仏の画像をまつったということから、自分の力を過信することなく、仏の助けを求めながら進んでいったことがわかるね。
百花さん 藤原清衡という人は、平和を実現するための強い意志と仏教への深い信仰、これを車の両輪のようにして進んでいったのね。すごい人だなあ…
ゆいまくん このようにして整備した奥大道(おくだいどう)のちょうど真ん中にあたる場所、それが関山の丘陵なんだ。清衡はそこに一基の塔を建て、ついで釈迦如来と多宝如来をまつるお堂を建立した。これが中尊寺のはじまりとなった。清衡、50歳ころのことだよ。
百花さん ということは、ここって東北の真ん中なの?
ゆいまくん 現在の測量でも、この場所は東北地方を南北に測ると、そのほぼ中間地点なんだそうだよ。
百花さん じゃあ、中尊寺っていうお寺の名前も、仏さまの力によって平和な奥州を築くその中心という意味でつけられたのかもね ***。
ゆいまくん 実際、奥州藤原氏が東北地方を治めた約100年間、この地には大きな戦乱が起きることはなかった ****。前半生で戦乱の世を生き抜いた藤原清衡は、後半生は平和な奥州の実現のために力を尽くし、晩年、その人生の締めくくりとして金色堂をつくったんだ。
話が長くなってしまったね。さあ、覆堂の中に進んで、金色堂と堂内の仏さまを拝観することにしよう。
百花さん わあ、中は人がいっぱい。その向こうに… 金色堂だ! 覆堂で保護され、さらにガラスのスクリーンにも守られて、大切にされているのね。そして、本当に金色に光り輝いている!
ゆいまくん これだけ有名なお堂だからね、参拝の方が多いね。一定間隔で流されている音声の説明が終了するごとに人が移動していくので、その合間を縫って前に出るといいよ。
百花さん ゆいまくんはどうやったらよく見えるかまで教えてくれるんだね。もしかして、いつもそんなことばかり考えているの? 不思議な人~
ゆいまくん 余計なことは言わなくてよろしい。それより、金色堂正面の開かれた扉の間から覗くようにして見てごらん。堂内はとても濃密な仏の世界となっているんだ。
(注)
* 覆堂は1288年(鎌倉時代後半)の「修造」。これを新造とみる意見と、さらに前から覆堂はあって、この年に文字通り修造されたとする意見がある。しかし、いずれにしても現在も残る旧覆堂は室町時代に建て直されたものである。重要文化財指定。
** 1090年代の京都は地震や大火災が起きており、中央が混乱したことが清衡にとって動きやすい状況をもたらしたとする考えもある。その一方で、この頃の朝廷は奥州支配の再編成に動いており、清衡の動向はそれに沿うものであったとする見解も出されている。
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平泉は北緯約39度、津軽半島の外が浜町は北緯約41度、福島県白河市は北緯約37度で、平泉は東北地方を南北に見て、実際にそのほぼ中央にある。中尊寺の寺名も東北地方の中央であるからつけられたものともいわれてきた。しかし、中尊という言葉は、あくまで特定の仏のことをさすとも考えられる。中尊寺のはじまりは清衡が関山の山頂に建てた一基の塔であり、そこにまつられた仏こそが「中尊」の由来であるとする説や、中尊の阿弥陀如来像が3丈の大きさでつくられたという大長寿院(二階大堂)が寺名の由来にふさわしいといった説もたてられている。そのほか、法華経などにみえる「人中の尊」に基づくといった説もある。
**** 清衡の死後、後継をめぐる兄弟の争いがあり、基衡が惟常を殺すといった事件が起こっている。しかし前九年、後三年合戦のような大規模な戦争は、源頼朝が奥州藤原氏攻撃を行うまで、数十年間起きることはなかった。