3-6 いよいよ重大事実、明かされる! 壇上諸仏の入れ替わり?

 

百花さん じゃあ、二天王はどんな存在? やっぱり極楽に行くために助けてくれる仏さまなのかな。

ゆいまくん 二天王像は鎧を着け、いかめしく腕を振り上げているね。向かって右が持国天、左が増長天という名前なんだよ *。彼らは仏教の守護神で、如来や菩薩に対して天(天部)というカテゴリーに属しているんだ。天部の神々は、悟りの世界まではまだまだ遠くて、むしろ私たちに近い存在なんだけど、仏教を信じる者を守る強い力を持っているんだ。  
 壇上に二天王像をまつったのは、堂内空間の守り手の役割を期待して、ことに金色堂には奥州藤原氏の遺体を安置しているわけだからその守護のために、また、往生の願いを助ける導き手としてといった意味合いがあったのだろうね。

百花さん 如来、菩薩とはまた別に天部というのがあって、仏教の守護神という位置づけなのね。怒ったような顔立ちなのは、仏の教えを守るために一生懸命働いているからなのね。

 金色堂をつくった藤原清衡は、狭い壇を超有効活用して、如来、菩薩、天部を組み合わせて、最強の救済グループをつくっちゃったってことね。
 ところで、奥の左右の壇は、奥州藤原氏の2代目の人、3代目の人の壇だということだけど、この2人はなんていう名前なの?

ゆいまくん 清衡のあとを継いだ2代目は基衡(もとひら)、その次の3代目は秀衡(ひでひら)というんだ。細かな経緯は伝わっていないけど、はじめは清衡のつくった中央の壇だけがあり、2代目、3代目の当主もそれにならって壇をつくって自分も同じように葬られたいと考えたのだろうね。だから仏像の組み合わせも同じとなったということだと思うよ。

 

4代目の泰衡は、秀衡のあとをついで2年後、頼朝によって滅ぼされてしまった。
4代目の泰衡は、秀衡のあとをついで2年後、頼朝によって滅ぼされてしまった。

 

百花さん 待って、待って。奥州藤原氏の3代、歴史の授業で出てきた! 今、思い出したよ。似たような名前が3人続くし、「衡」の字が覚えられないしで、テスト前に諦めちゃったヤツだ。よしっ、今度こそ覚えるぞっ。清衡、基衡、秀衡だから、「キヨちゃん、モッちゃん、ヒデちゃん」でいいよね。
 それで、左右のどちらがモッちゃん檀で、どちらがのヒデちゃん壇なの?

ゆいまくん …その前に壇の呼び方なんだけどね、真ん中の壇は言うまでもなくこのお堂をつくった清衡の檀で、中央壇。これはいいよね。それに対して奥の2つの壇は、方角で呼ぶのが一般的なんだ。金色堂は東に面して建っているから、中央壇に向かって右奥の壇が西北壇、左奥の壇が西南壇というわけだよ。
 そのどちらがモッちゃん、いや、基衡のための壇で、どちらが秀衡のための壇としてつくられたものなのかは、議論があったんだ **。現在は、各壇の意匠の比較研究から、西北壇の方が古い、すなわちこちらが基衡のための壇、西南壇は秀衡のための壇とする説が有力となっているよ。

 

金色堂は東向きだが、正確には真東ではなく、9〜10度南に振れている。
金色堂は東向きだが、正確には真東ではなく、9〜10度南に振れている。

 

百花さん …いやーな予感がしてきた。議論がある、説が分かれるって話が出てきたってことは…何か、難しい話がはじまるんじゃないの?

ゆいまくん 実はね、壇の仏像が入れ替わっているんだ。

百花さん キターっ。入れ替わりって、いかにもややこしそうな話! 本来は中央壇にあるべき像が別の壇に移っていたりって、そういうこと? 
 金色堂って創建以来、覆堂にも守られながら今日まで伝えられてきたんだよね。なのに、中の仏像が入れ替わっているなんてことがあるのかな。不思議~

 ゆいまくん 長い歴史の中で、お寺が衰え、混乱した時期があったりもしたんだ。
 中尊寺がつくられて数十年後、栄えていた奥州藤原氏もついに滅亡の時を迎えることになる。以後、中尊寺は鎌倉幕府や江戸時代には仙台藩の伊達氏によって保護されはしたけど、何といっても最大の外護者(げごしゃ、常に仏や僧らを供養して、これを援助する俗世の人)であった奥州藤原氏が滅亡している中でお寺を維持していくことは、大きな困難が伴ったんだよ。
 実際、14世紀前半の文書に、金色堂内の傷みが進んで、仏像も倒れてしてしまっていたと書かれていたり、大きな火災があってまわりのお堂が燃え落ちるといったこともあったんだ。江戸時代には仏像の盗難も起こっているんだよ。長い年月の間にはさまざまな出来事があり、仏像を一時的に避難したり戻したりといったこともあったんだろうね。

百花さん ずっと同じままっていうことはないってことね。

ゆいまくん じゃあ、ここからは、じっくりと各仏像を見ていきながら、入れ替わりについても考えていこう。
 まずは、各壇の真ん中に座っている阿弥陀如来像を見比べてみようか。何か気がついたことはない? ヒントは、阿弥陀像の手に注目だよ。

 

各壇の阿弥陀三尊像の中尊。左から中央壇、西北壇(向かって右奥の壇)、西南壇(向かって左奥の壇=この像だけが来迎印)
各壇の阿弥陀三尊像の中尊。左から中央壇、西北壇(向かって右奥の壇)、西南壇(向かって左奥の壇=この像だけが来迎印)

 

百花さん 中央の壇と西北壇(向かって右奥の檀)の阿弥陀如来像は、両手をお腹の前で組んでいるね。これは、法金剛院で拝観した阿弥陀さまと一緒… 平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像もこの姿だよね。あれっ、西南壇の阿弥陀如来像は違ってる。片手を上げ、片手を下ろしているから、こちらは三千院の阿弥陀さまと同じだ。1体だけ違っている… なぜなんだろう。

ゆいまくん そうだね。中央壇と西北壇の印相(いんぞう)は定印(じょういん)、ところが西南壇の像だけが来迎印(らいごういん)を結んでいるんだ。
 この西南壇の像の大きさは、他の壇の中尊像よりも小さめなんだ。台座の高さで調整し、脇侍とのバランスを整えているので気がつきにくいけど、一回り小さく(中央壇、西北壇の中尊の像高は60センチを越えるが、西南壇の中尊は約49センチ)、顔だちもやや平板な印象がある。これは、さっき言った江戸時代の盗難事件(江戸時代後期の医師で郷土史研究家の相原友直の著書『平泉雑記』に、江戸時代前期のこととして、金色堂の阿弥陀如来像が盗難にあったことが書かれている)と関係があるらしい。堂内の阿弥陀像の1体が盗まれてしまったために、まったく別の像によって補ったということだね。
 この一事をもってしても、堂内の仏像がずっと創建時のまま時が止まったようにして今に至っているということではないとわかるんだ。
 さあ、それじゃあ、改めて中央壇の阿弥陀如来像をよく見てみよう。どんな印象かな?

百花さん お顔が、ほんとうにまん丸だね。「円満」ってこういうことをいうんだろうね。目鼻立ち、上半身の姿勢、座り姿、どこをとっても余分なものもないし、足りないところもない。全体に、優しい雰囲気を出しながらも、威厳のようなものも感じられるね。これまで拝観させていただいた法金剛院や三千院の仏像に比べてずっと小さいのに、雄大な雰囲気があって、とてもカッコいい!

ゆいまくん そうだね。定朝が完成させた仏像の様式をよく受け継いで、実に正統的な平安仏といった印象だよね。藤原清衡が自分の往生のため、戦乱で苦しみ命を落としていった人びとの救いのためにつくりあげた金色堂の仏像としてふさわしいものをと、念には念を入れてつくらせたものだったのだろう。金色堂がつくられた1120年代という時期を代表する仏像としてとてもすぐれた、貴重な作例といえるね。
 脇侍の菩薩像も見てみよう。中尊同様に落ち着いた姿をしているよね。控えめに腰をひねって立ち、やさしげな丸顔にそれほど細身とはしない体躯。いかにも穏やかな菩薩像の姿は、この阿弥陀如来像の脇侍として、まことにふさわしいといえる。

 

中央壇の阿弥陀三尊像。三尊としてよく調和し、構造もから同時一具であるとわかる。
中央壇の阿弥陀三尊像。三尊としてよく調和し、構造もから同時一具であるとわかる。

 

ゆいまくん それじゃあ、今度は二天王像を見てみよう。中央壇の二天像はどんな印象があるかな。特に、阿弥陀三尊像と比べて、どうかな?

百花さん 二天王像は怒りの表情、動きのある姿勢だから、阿弥陀三尊像と比較するのは難しいけど… あえていえば、落ち着いた三尊像に対して、二天王像はとてもシャープな印象だね。…って、もしかしたら、ここで入れ替わりの話? この二天王像は本来別の壇の像だったとか。

ゆいまくん じゃあ、西北壇の二天王像を見てみて。

 

左が今中央壇にある二天王の1体、右が西北壇の二天王の1体。左は激しい動きをみせ、右は大人しい印象
左が今中央壇にある二天王の1体、右が西北壇の二天王の1体。左は激しい動きをみせ、右は大人しい印象


百花さん あ、こっちの像の方がそんなに激しい感じじゃない。お怒りもそこそこっていうところね。それに、体もそんなには細くしないで、穏やかで落ち着いて見える。ということは、こっちの(西北壇の)二天王像がもと、中央壇にあったってこと?
 それじゃぁさ、六地蔵はどうよ。どの壇のどの像もほとんど同じ姿勢で、静かーに立っているんですけど。どれが本来の中央壇の像か見分けるなんて、そんなのできる?

ゆいまくん 地蔵菩薩像は、左手は少し上げ、右手は下げててのひらをこちらに向ける姿をしているね。手に持っている丸いものは、宝珠(ほうじゅ)というんだ。どの壇のどの像もほとんど同じようだよね、でもね、本来の中央壇の像がどれだったか、わかるんだよ。
 地蔵菩薩像のお腹のところに注目してみて。ひもの結び目が見えているでしょ。でも西北壇の六地蔵は、どう? 結び目がないよね。実は、お腹に結び目がない像の方が古い様式であると考えられているんだ。

百花さん お腹にひもの結び目? あっ、あれかー。胸の下のところでひもをかわいく結んでいるヤツね。それが中央壇と西南壇の地蔵菩薩像にはあるけど、西北壇のは…ホントだ。ない!

これがあるかないかで、様式的に古い像か、新しいのかを知ることができるってこと? そんな細かな部分までよく見ることで、わかってくることがあるのね。そういうのを専門に研究している学者さんがいるのか。世の中は広いなー。

 

左は西北壇の地蔵菩薩の1体(お腹に結び目なし)、右は西南壇の1体(結び目あり)。体形や衣の着け方も異なっている
左は西北壇の地蔵菩薩の1体(お腹に結び目なし)、右は西南壇の1体(結び目あり)。体形や衣の着け方も異なっている


ゆいまくん …ということで、中央壇の阿弥陀三尊像と、西北壇の六地蔵像、二天王像を合わせると、これが本来の中央壇の11体となるわけだ。

百花さん 確かに、その11体が1セットだったら、調和が取れているね。でも… ゆいまくんの口車にのせられて、すっかり「なるほどねー」ってなっちゃったけど、本っ当にそう言い切れるのかなー。

 そうだ! 「一具(ひとそろいであるということ)」といえるかどうかを知るのには、材質や構造をみればわかってくるっていう話、三千院の仏像拝観の時にしてくれたよね。

ゆいまくん 「口車にのせられて」はひどいなあ。でも、百花さん、今日はさえているじゃないか。そう、材質や構造を知ることはとても大切だ。

百花さん 「今日は」ってどういうことよ。いつもさえてます!
 で、材質と構造だけど、これらの仏像は木像なのよね。やっぱり寄木造?

ゆいまくん 金色堂の仏像は寄木造割矧造(わりはぎつくり)*** でつくられていて、材質は、針葉樹(ヒノキ、ヒバ)を用いた像と広葉樹(カツラ)でつくられているものとがあるんだ ****。
 そして、さっき言った当初の中央壇の像と思われる11体は、すべて針葉樹材でつくられている(特に阿弥陀三尊の中尊と脇侍は、内ぐりの取り方や接合部のつなぎ方まで共通している)。だから、材質、構造からも一具と見なせるわけだね。
 こうしたことがわかってきたのは、そんなに昔のことじゃない。2000年前後になって科学的な調査が行われたりして、さまざまなことが見えてきたんだ。
 これらの仏像が国宝指定されたのは、2004年のこと。ところが金色堂本体はそれより半世紀以上前の、1951年に国宝となっているんだよ。なぜ中の仏像の指定が遅くなったのかというと、金色堂の仏像について、入れ替わり問題も含め、その位置づけが定まっていなかったからなんだ。しかし近年、さまざまな視点や方法によって研究が進み、課題がかなり整理されてきて、国宝指定への道が開かれたというわけだ。
 
百花さん 研究の積み重ねがあっての国宝指定ってことなのね。

 

黒く塗った像を集めると、本来の中央壇となる
黒く塗った像を集めると、本来の中央壇となる


(注)
* 二天像は肉身部(肌がみえているところ)に彩色のあとがある。また、壇をまたいでの入れ替わりだけでなく、左右の像が反対になっているのではないかと推測されているものもある。

** 寺伝では、西北壇が基衡のための壇、西南壇は秀衡のための壇とされてきたが、戦後の科学的調査の結果、逆ではないかとする説が強まった(寺伝錯誤説)。しかし近年、再び西北壇が基衡、西南壇が秀衡の壇とする説が有力になってきている。

*** 割矧造は、一木から彫り出した像を、制作の途中で前後に、あるいは正中線で割り、内ぐりを行ってから再び接合する(矧ぐ)つくり方。寄木造が広まったのちも、比較的小規模な像ではこの造像法がよく用いられた。なお、江戸時代の盗難事件ののちに他堂から移されたと考えられている西南壇中尊の阿弥陀如来像は一木造である。

**** 針葉樹と広葉樹は年輪の見え方が異なり、区別がつきやすいが、同じ針葉樹のヒノキとヒバ(ヒノキアスナロ)はともにヒノキ科ということもあり、特に文化財となるとサンプルを取るわけにもいかず、区別がつきにくい。
ヒノキは福島県あたりを北限としており、平泉周辺では自生しない。一方ヒバは、現在も青森県特産として知られるように、東北の寒い気候にも耐えて大木になり、湿気や虫害にも強い良材で、金色堂本体にも使われている。
中央壇像がヒバ材であれば、京都から仏師を招聘して現地でつくられたと考えられる。ヒノキであれば、京都でつくらせ、運ばせた可能性があるが、奥州藤原氏の財力、また、福島県までを影響下としたことを考えると、ヒノキの良材を平泉に運ばせ、この地で制作させたのかもしれない。