3-4 圧巻! 金色堂の美

金色堂中央の仏壇
金色堂中央の仏壇

百花さん 金色堂、すごっ! 別の建物の中にあるっていうし、ミニチュアのお堂のようなものなのかなって思ったけど、そんなことはまったくないのね。もちろんお堂としては小さめなんだろうけど、存在感抜群! 雄大なお堂だって印象さえ受ける。
 金きらきんのお堂なんて成金趣味みたく思ってたけど、全然違った~。むしろ、品が良くて、洗練されているっていうのかな、そんなふうに感じるね。
 これでお堂の大きさはどれくらいなの?

ゆいまくん 1辺は5メートル48センチのほぼ正方形の形をしているんだ。畳を敷き詰めたら18枚半くらいかな。

百花さん 18畳か… やっぱり、小さいようで、意外と大きいのかも。お堂の中に人は入れたの?

ゆいまくん 扉の高さは160センチくらいだよ。昔の人は今より背が低かっただろうけど、ちょっと腰をかがめれば入れるし、中に入れば立てる。でも、こうしたお堂は外から拝むもので、特別な時以外は入ることはなかったんじゃないかな * 。

百花さん 扉も床も天井まで金色に輝いているけど、黒塗りや白っぽく飾っているところもあるね。全部金色っていうわけじゃあないのね **。

ゆいまくん 柱や壇の手すりは、黒地に白色に彩られた模様が広がっていて、たいへん美しいね。白の中に赤、青、緑などさまざまな色あいが見えたりして、輝きがすばらしい。これは南方の海に生息するヤコウガイという巻貝の殻を薄く切り取って用いた漆工芸の技法で、螺鈿(らでん)とよばれるものなんだ。ちょっと見えにくいけど、中央の4本の柱(巻柱とよばれている)には、仏の姿が描かれているんだよ。

 

内陣の柱。丸い中には仏の姿が描かれている
内陣の柱。丸い中には仏の姿が描かれている

 

百花さん このお堂の装飾には、ずいぶん遠くからもたらされたものも使われているのね。そんな珍しいものをどうやって手に入れたのかな。

ゆいまくん ヤコウガイは奄美などの南西諸島でとれるので、九州や都を経て届けられたのだろうね。奥州藤原氏は、版本の経典や高価な陶磁器を中国(宋)から輸入したり、今の愛知県の特産品だった陶器を大量に購入したりしていて *** 、広く交易のネットワークを築いていたことが知られているよ。 
 美しく整えられた壇の上には、金色に輝く仏像が安置されているね。壇は中央だけじゃあなく、左右の奥にもつくられているんだけど、わかるかな。そして、3つの壇の下には、奥州藤原氏3代の遺骸が安置されているんだよ。

百花さん えっ、じゃあ、このお堂は奥州藤原氏のためのお墓でもあるということなのね。

ゆいまくん そう、このことも金色堂のたいへん重要な特色なんだよ。

百花さん 金色堂は藤原清衡が晩年につくったということだけど、何年にできたとか、そういうことはわかっているの?

ゆいまくん お堂の天井裏に棟木銘があるのが見つかっているんだ。そこには1124年の年とこのお堂をつくった人たちの名前が書かれているんだよ。

百花さん 仏像の像内銘みたいに、見えないところにその由来を書いておいたのね。

ゆいまくん お堂の場合は、板に年や関係者を書いて高所に打ち付けておくことがよく行われて、それを棟札というんだけど、金色堂では直接棟木に墨書されているんだ。そこは、お堂の完成前でなければ書くことはできない場所なんだ。
 この墨書が書かれた1124年、藤原清衡は69歳だった。そして彼はその4年後に亡くなっている。それまでには金色堂は完成していて、亡くなったらこの中に葬るということまで予定されていたと思うよ。
 金色堂内の墨書に書かれた人名だけど、まずは「大檀 藤原清衡」と大きく書かれている。「檀」は「檀越(だんおつ)」の略で、仏のためにこのお堂を建てた人ということだ。そして、その下に「女檀(にょだん)」として「安部(倍)氏、清原氏、平氏」と小さな字で三行に書かれているんだ。お堂をつくるために、安倍氏など3つの氏族の女性もともに尽くしたということだね ****。このうちの「平氏」は、清衡が後半生を共にした妻と考えられているんだ。「安倍氏」「清原氏」が具体的に誰をさすのかはわからないけど、清衡の母(安倍氏出身)をはじめ、奥州の戦乱で苦しんだ両氏の女性たちとともに仏の救いにあずかりたいとする清衡の思いがそこにあらわれているように思うよ。

 

 


(注)
* 本来はお堂の中央にまつった阿弥陀仏のまわりを回りながら念仏を唱え続ける、常行三昧という行を修するためのお堂(常行堂)の形式をもっていたのではないかとする説が唱えられたこともあった。

** 屋根は1枚ずつ瓦の形にていねいに彫りあげた木で葺かれている。こうした木瓦葺(こがわらぶき)の屋根の建物として現存するのは、金色堂のみ。修理前の調査の際には金箔の痕跡が見つからなかったということで、箔押しされていないが、本来は金箔が押されていたと推定する論者は多い。
なお、堂内側面、背面の壁面は、箔のあとが残る古い塗りを残すために金による修補は行わず、表面の補修にとどめている。

*** 中国からの文物の窓口となっていたのは、博多であった。平泉までの運搬は、愛知県産の陶器(常滑焼、渥美焼)が大量に出土していることから推測して、太平洋の航路を用いて北上川へという水運が多く使われていたと考えられている。

**** そのほか、大工、鍛冶(実際に建立にあたった技術者)や行事の指揮をとった人の名前も書かれている。これが書かれたときに、上棟式(屋根の一番上の部材である棟木を取り付け、完成を祝う儀式)を行ったのであろう。
藤原清衡の肩書きは「散位」となっている。これは、位階はあるが官職のないものを意味する。
なお、金色堂は二重屋根となっており、これが書かれているのは、内屋根の棟木の下端である。