3-10 ゆいまくんの追加講義ー奥州藤原氏3代は金色堂壇下の金棺の中に眠る
藤原清衡が火葬でも土葬でもなく、自らがつくったお堂の仏壇下に葬られることになったことについては、たいへんに珍しい例といえるが、それに近い例がまったくないわけではないんだ。
例えば、1114年に亡くなった堀河天皇中宮の篤子(とくし)内親王は、遺言により生前建立していた掌侍堂という小堂に遺体を運ばせ、入棺後堂内に納められた(当時の貴族の日記によれば「土葬なり」とある。火葬されなかったことの意か、それとも文字通り堂下の土中に埋められたことを意味するのか、不詳)。これなどは、藤原清衡の例に近いと言えるかもしれないね。また、清衡と同時代を生きた白河法皇は、長年、自らの葬送について、遺体は荼毘にふさずに鳥羽の塔内に納めるようにと指示していたそうだよ(1129年に亡くなるその少し前に気持ちを変え、結局は火葬された)。確実に堂内の仏壇中に納められた例を見い出すことはなかなか難しいのだけど、少なくとも清衡が亡くなる前後の時期、都の貴人の中に、火葬せず、ゆかりの建物内に納められるという葬送の仕方を望む考えが生まれていて、清衡もそのことに関心を持ち、情報を得ていたという可能性は大いにあるだろうね。
しかし、それにしても、清衡の葬られ方はあまりに異例づくめだ。彼の柩は内、外とも金で箔押しをした棺で、それを金色堂の壇下に納めさせたのだから、彼の遺体はいわば二重に金につつまれたわけだ。清衡は何を願って、このような葬り方を選んだのだろう。
そこには2つの可能性があるように思える。
1つは、確実に往生するため。当時、極楽往生を果たしたと信じられた人の伝記集(往生伝)がさかんにつくられていたのだけど、その中に、時間がたっても遺体に変化がなく、それは確かに往生を遂げたことを示す奇跡と受けとめられたという話がある。往生者の遺体は変化しないものだとの考えから、永久不変の象徴である金の中で眠るという方法が選ばれたのではないだろうか。
もう1つの可能性として考えられるのは、弥勒の下生(げしょう)まで体を保存したいという願ったのではないかということ。弥勒ははるか何十億年も先に仏陀となってこの世に出現し、釈迦の救いにもれた衆生を救済すると信じられ、その時に立ち会いたいとする信仰はこの時代、広く行われていたんだ。藤原清衡もまたこの信仰を持っていたとすれば、死後、魂は極楽浄土へ、体はこの世にあって弥勒下生を待つという願いを抱いて、体を保存するために二重の金の入れ物に葬られることを願ったのではないだろうか。
このように金色堂は清衡が自らの往生行のため、さらには奥州の戦乱で苦しんだ彼の係累の人びとの往生のためにつくられたものだったわけだけど、あとをついだ2代目、3代目が金色堂内に壇を設け、その下に葬られることによって、金色堂に新たな意味が付け加えられたように思う。
清衡の孫、秀衡は、自らの館(平泉館、ひらいずみのたち)を「金色堂正方」に構えたという(「寺塔已下注文」)。秀衡の館が正確に金色堂正面の方角であったかどうかはともかくとして、秀衡の気持ちとしては、金色堂に向き合って祈ることを日々のつとめと考えていたのではないかな。
このように金色堂を深く尊崇していた秀衡は、やがて、父の基衡とともに奥州藤原氏の祖である清衡と同様に金色堂に葬られたいと願うようになったのだろう。魂は浄土に、しかし体は金色堂内の金棺に守られて平泉の地にとどまり、3代にわたってつくりあげてきた平和な奥州と仏教都市・平泉を守り続けたいと願ったのではないだろうか。