2-6 いよいよ話は佳境に! 「一具」か、そうでないか


百花さん 銘文から、誰がいつ、何のためにつくった仏像なのかがわかっちゃうなんて、すごいね。それじゃあ、もう全部わかっているのと同じだね。

ゆいまくん (小声で)…百花さんと話をしていると、小さな悩みなんてばかばかしく感じられてくるよ。

百花さん ゆいまくん、何か悩んでいることがあるの? 私でよければ、聞いてあげるよ。

ゆいまくん …話をもとにもどそう。確かに銘文から得られる情報はとても貴重なものだ。しかし、だからといってそれですべてがわかるかといえば、そんなに甘いものではない!
 たとえば、願主の実照の前に「僧」と書かれている。このことから、実照は造像時、特別な肩書きを有していなかったとも考えられる。

百花さん 役職がない、ヒラのお坊さんということね。でも、こんなに立派な仏像をつくることができたんだから、何かしら有力な人ではあったはずだよね。どこのお寺の坊さんだったんだろう。

ゆいまくん そういうことが銘文からはわからないんだ。他の史料を調べると、同名の天台宗の僧 * がいたことはわかっているけど、同一人物かどうか…

百花さん 銘文で何でもわかるってものでもないのか… でも、願主が有名人ではないというのは、修行と隠遁の場であった大原の仏像にふさわしいとも言えるね。

ゆいまくん さらに注意しなければならないのは、銘文にはわざわざ「勢至菩薩をつくる」って断っている点だね。

百花さん ということは、この銘文に書かれていることは、中尊やもう1体の脇侍像にはあてはまらない可能性もあるってこと?

ゆいまくん そう、この勢至菩薩像の銘文は三尊全体にかかっているものではないんだ。1148年に僧実照がつくらせたのはあくまで勢至菩薩像。ということは、他の2像はそれぞれ別の願主によって、別の時期につくられたのかもしれない…

百花さん ちょっと待ってよ。ほら、この三尊の仏さまは、これでセットでしょう。それが別々だったかもなんて、疑うんだ。ゆいまくんの性格、歪んでるんじゃないの。
 あ、そうだ。阿弥陀如来像や観音菩薩像には銘文はないの?

ゆいまくん 「性格が歪んでいる」はひどいなあ…
 で、銘文なんだけど、残念ながら勢至菩薩にしかないんだ **。
 三尊がもともとの一組としてつくられていれば、そのことを「一具である」と表現するんだ。さて、百花さん、ほんとうにこの三尊は本来一具であると言い切れるかな。よく見て、考えてみてください。

 

中尊と脇侍、三尊は本来一具
中尊と脇侍、三尊は本来一具


百花さん 脇侍の2体は…もちろん手の構えは違うけど、でもそれ以外は細かいところまでほとんど瓜二つと言えると思う。でも、中尊と脇侍が同じか、似ているかと言われると…だんだん自信がなくなってきた。如来と菩薩だから姿がもともと違うし、大きさも姿勢も違う。光背や台座の形式は違っている… うーん、難しいなあ。ほら、きょうだいだって、似ているって言われたり、全然違うねって言われたりするじゃない。「よく見る」って難しいね。

ゆいまくん 観音菩薩像と勢至菩薩像は、一具でないと思える根拠らしきものを探す方が逆に困難だよね。少なくとも、この2像はもとからの一具と考えてよいだろうね。
 問題は、中尊の阿弥陀如来像と脇侍像が一具の作といえるのかということだ。実際、中尊像がやや古く、脇侍像はのちに付け加えられたのではないかという説が立てられたこともあったんだよ。
 尊格(その仏さまがどういった種類で、どのような性格のものか)の違いがあり、姿も形も大きさも異なっている像同士を比べるのは簡単なことではないよね。でも、三尊として調和が取れているか、一体感が感じられるかと問われるならば、そうだと答えることができそうだ。端的に、三尊は作風が近いと言うことができる *** 。
 ここで視点を変え、像の構造を見てみよう。と言っても、本当に覗きこむわけじゃないよ、もちろん。これまでの調査、研究の成果によって、像のつくりの面から考えようということだね。
 この三尊は寄木造の技法でつくられているんだけど、実は同じ寄木造といっても像により、またつくられた時期によって木の寄せ方や内部の補強の仕方などに違いがあるんだ。そして、この三尊像の構造は、まったく同一ではないものの、基本的に共通していることがわかっているんだ。
 作風の近似という前提、長く三尊一具としてまつられてきたことの重み、それに加えて構造の共通性、以上からこれら三尊はもともと一具としてつくられたものであると結論づけることができるんだよ。

百花さん いくつもの根拠を積み重ねて結論を導くやり方は、なんだかドラマの探偵さんみたい。そういえば、法金剛院の阿弥陀如来像がもともとどのお堂の本尊だったのかを探究する過程も、そんな感じだったのを思い出したよ。法金剛院の像は院覚さんだっけ、作者を推定できたわけだけ、こちらの仏像をつくった仏師はわかっているの?

ゆいまくん 残念ながら銘文には仏師名は書かれず、ほかにこの像について触れている記録も乏しくてね、作者については不明なんだ。
 勢至菩薩像の銘に書かれる1148年は、鳥羽法皇が院政を行っていた時期。院政時代には造寺造仏がたいへん盛んで、定朝の系譜を引く円派、院派、奈良仏師が皇室関係や上級貴族による造像を担い、定朝作の仏像の姿・形を受け継いだ像がたくさんつくられていたんだ。

百花さん でも、こちらの阿弥陀三尊像は世俗から距離を置きたいと願った方たちによってつくられたかもしれないよね。だったら権力者と結びついた仏師には依頼しなかったんじゃない。別系統の仏師っていなかったの?

ゆいまくん たしかに、定朝の流れとはまた異なった系譜の仏師によるものかと思われる丈六クラスの仏像が都からやや離れた地域にいくつか伝来している **** 。でも、こうした仏像や仏師に関してはわかっていることは少なく、これからの課題かな。
 さて、次に、もうひとつの「一具といえるのか」問題に取り組んでいくよ。

百花さん うひゃー、まだ話は続くの?


 (注)
* 天台僧で実照と名乗る僧が同時代にいたことはわかっている。ただしこの実照は、三千院の勢至菩薩像の銘文にある1148年より前に律師という位を授かっている(『台記』)。

** 勢至菩薩像の像内銘のほかにも、観音菩薩像、勢至菩薩像の台座の蓮弁裏にも銘文はある。しかし、これは江戸時代の修理に際してのもの。

*** 耳の形も共通している。耳はどの像でも必ずあり、正面からは目立たないが、比較的複雑な形状をしており、仏師の個性が比較的出やすい部分であるとして、仏像の研究でよくとりあげられる。

**** 例として、和歌山県那智勝浦町の大泰寺阿弥陀如来像(1156年)や奈良県五條市の湯川阿弥陀堂阿弥陀如来像(1171年)をあげることができる。