2-1 京都・大原といえば…声明と融通念仏?
百花さん 今回も京都! とっても楽しみです。
三千院(さんぜんいん)というお寺で阿弥陀三尊像という仏さまを拝観させていただくということだけど、京都のどのあたり?
ゆいまくん 前回訪れた法金剛院よりもずっと遠いよ。京都市左京区大原というところにあるんだ。
左京区の左京というのは、平安京の東半分を左京、西半分を右京と分けたことによるのだけど、現在の左京区や右京区はとても区域が広くてね、三千院がある大原は市内といってもかなり北の方なんだ。平安時代の人に「現代においてはあそこも左京」と伝えたら、きっとびっくりするだろうね。
大原へは京都駅をはじめ主要な駅からバスが出ている。京都駅から乗ると1時間くらいだ。紅葉の季節など観光シーズンは混雑が予想されるので、さらに時間がかかるかもしれないし、落ち着いて仏像に向き合いたいなら皆さんが多く訪れる時期は避けるのがお勧めだよ。言うまでもないことだけど。
百花さん ゆいまくん、またそんなこと言って。私は桜か紅葉の季節がよかったなあ。
バスを降りてからは近い? 川沿いの細い道を行くのね。
ゆいまくん 大原のバスターミナルからは、ゆっくり歩いても10分とかからないよ。東に向かって少しずつ上ってゆく道沿いは漬物や民芸品を売る昔ながらのお店が並んで、風情がある。そして、右手のせせらぎに耳を澄ませてご覧よ。心が洗われるようだね。
この流れは呂川(りょせん)というんだ。
百花さん んー、川のせせらぎで心が洗われるなんて、また古風なこと言っちゃって。で、この川は呂川…面白い名前だね。
ゆいまくん 三千院をはさんで北側にも川が流れていて、そっちは律川(りつせん)。呂川と律川はやがて合わさり、高野川(たかのがわ)へと注いでいるんだ。
呂と律は声明(しょうみょう)の音階で、「ろれつ」という言葉の語源にもなっている。声明というのは、仏教の音楽のことなんだ。
百花さん 「呂律(ろれつ)がまわらない」なんて言うけど、もとは音楽に関する言葉なのね。それが川の名前にまでなっているということは、大原っていうところはその声明とかいう音楽と関係が深い場所だったということなのかな。
大体、仏教と音楽にはつながりがあったりするの?
ゆいまくん 仏教と音楽はとても深い関係があるんだ。たとえばね、法要などでお坊さんがお経を読むよね。今度機会があったら、注意深く聞いてごらん。高く低く、長く短く、どこで息を継ぐかなど工夫があるんだ。日本では古代以来、仏教と音楽のかかわりはとても深いんだよ。
声明とは、経典の言葉を引いて仏をたたえ、祈るために歌われる仏教の音楽なんだ。大陸から伝わって、その後の日本のさまざまな音楽の源泉となっていったんだよ。そして、大原は天台宗の声明の伝承と発展にとって大変重要な場所なんだ。
百花さん 仏教の音楽ということは、中心となったのはお坊さんだよね。だったらもっとお坊さんが集まりやすいところの方がよかったんじゃない。ここは京都の町なかからとっても遠いし、バスでもずいぶんかかったくらいだから、昔だったらここに来るだけでとってもたいへんだったんじゃないかな。
この大原で声明を伝えたり学んだりしたお坊さんたちは、どこから、どうしてこの山里へ来んだろうね。不思議~。
ゆいまくん 大原はね、比叡山とかかわりが大きいんだ。比叡山については知っているかな。京都の北東にそびえる山だよ。
百花さん あ、それなら歴史の授業で、先生が「テストに出すぞー」っていうから、「比叡山延暦寺、最澄、天台宗」って丸暗記したよ。今でもすらすら出てくるんなんて、私、すごくないですか。
ゆいまくん (小声で)いや、それくらいは常識だと思うけど…
最澄が比叡山延暦寺を開いたのは、8世紀末。以後、このお寺は天皇家、摂関家と結びついて大いに栄えるのだけど、権力とつながることで僧侶としての本来の生き方をおろそかにする者もでてきてしまったんだ。
そもそも、これは延暦寺に限ったことではないが、お坊さんは出家する前の身分を持って寺に入るんだ。つまり、天皇家や貴族出身であれば、仏教世界の中でも高い地位に、低い身分出身であれば寺の中でも低い身分のまま。これってどうなんだろうね。
百花さん お坊さんになっても、俗世間の身分がずっとついてくるのか。確かにもやもやするね。
ゆいまくん そう、そこでだ! 延暦寺の俗化を嫌って山を下り、隠遁(いんとん)生活をしながら厳しい修行や念仏の日々を送ろうとする僧があらわれた。比叡山の北西の麓にあたる大原の地は、そうした遁世(とんせい、とんぜい)僧 * によって開かれていったんだ。
お寺に入ってお坊さんになることを出家というけど、遁世僧はそこからさらに厳しい修行の場へと自ら出て行ったわけだから、いわば二重の出家を遂げた人たちともいえるね。
比叡山から大原へやってきた遁世僧の中でひときわ有名なのは、良忍(りょうにん)** という方だよ。良忍さんは11世紀から12世紀にかけて活躍した僧で、きびしい修行と念仏三昧の日々を送ったんだ。なんでも、自分の指を焼くといった苦行(燃指供養 ***)をしたそうだよ。
百花さん えーっ、信じらんない!
ゆいまくん どうしたら仏に近づけるか、人々を救えるのかってどこまでも真剣に悩んで、そんな荒行におよんだのかもしれないね。
良忍さんは、最澄が唐から伝えたという天台声明を再興し、また、融通(ゆうづう)念仏という念仏のあり方を打ち立てたとされているんだ ****。
百花さん 平安時代半ば以後阿弥陀仏への信仰がとても高まったって、この前、法金剛院に行った時に教えてもらいました。念仏というのは、極楽往生を願って阿弥陀さまを念じて「南無阿弥陀仏」と唱えることでしょう。融通念仏っていうのは、それとはまた別のものなの?
ゆいまくん 融通念仏というのは、互いの念仏が相通ずるという考え方だよ。すなわち、1人の念仏はその人の往生のためだけでなく万人の往生に通じ、また、万人の念仏の功徳で1人1人の往生が実現されていくものと考えるんだ。
百花さん 自分が救われるための念仏から、すべての人の救済へとつながる念仏へと考えを進めたということなのね。
そうすると、声明と融通念仏って関連しているところがあるかもね。だって、音律を揃えてみんなで唱えれば、多くの人たちの念仏がより通じあえるってことになるんじゃないかな。
(注)
* 公に認められた僧の世界から離脱した僧のこと
** 1072または1073年ー1132。はじめ良仁と名乗る。比叡山で修行し、後年大原に移り住んだ。
*** 『後拾遺往生伝』には良仁(良忍)が法華経を日々読誦し、写経に勤めたことが述べられているが、その法華経の薬王菩薩本事品という章には、仏に身をささげることの尊さが説かれ、無上の悟りを得るために手か足の一指を燃して仏塔を供養することが述べられている。
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良忍は融通念仏の祖とされている。しかし、現在のところ良忍の著作中に融通念仏を説いたものは見つかっておらず、その死後まもなく書かれた『後拾遺往生伝』中の「沙門良仁」伝でも融通念仏のことは書かれていない。良忍の死後20年以内に書かれた『三外往生伝』の「良忍上人」伝によれば、良忍は死後、覚厳という僧の夢に現れ、融通念仏の力によって上品上生(9通りの往生のうち最上のもの)の極楽往生を遂げたと語ったという。良忍が融通念仏の教えをどのように説いたのかは不詳であるが、死後それほど時間を置かずして、良忍と融通念仏は強く結びつけられていったと思われる。