1-7 阿弥陀如来像の作者、仏師院覚について

百花さん 法金剛院の阿弥陀如来像は、このお寺の創建時に西御堂本尊としてつくられた像ということだけど、じゃあ、この仏像をつくった仏師についてはわかっているの? 

ゆいまくん 当時の貴族の日記(藤原宗忠の『中右記』)から、西御堂の本尊の作者は仏師院覚とわかっているんだ。したがって、本像は院覚の作ということになる。院覚は定朝から3代あと、すなわちひ孫弟子にあたる仏師なんだ *。

百花さん 定朝は、さっき話にでてきた平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像をつくったスゴ腕仏師だったよね。そして、この仏像は定朝の様式を受け継いでいるということだけど、作者そのものも定朝の流れを汲んでいるということなのね。

ゆいまくん 定朝のあと、その流れを汲む仏師は3つの系統に分かれていったんだ。平安時代後期以後の仏像彫刻の歴史ではこの3つの派がよく話題にあがるので、知っておくといいよ。
 3つの派のうちの1つは名前に「院」という字がつく仏師が多いので院派(いんぱ)、同様に「円」という字がつく円派(えんぱ)、そしてのちには慶派とよばれるようになる奈良仏師、これが定朝の流れを汲む3派(正系三派)なんだ。

百花さん 院覚は院という字がついているから、院派の仏師ということね。

ゆいまくん そういうことだね。
 院覚は天皇家、摂関家に関係する多くの仏像をつくったことが記録から知られているけど、現存する仏像ではっきりと院覚作と推定されているのはこの法金剛院の阿弥陀如来像だけなんだ。

百花さん どんな人物だったとか、そういうことはわかっているの?

ゆいまくん 院覚は定朝の直系であるという意識を強く持っていたようで、西院邦恒朝臣堂(さいいんくにつねあそんどう)の本尊(定朝最晩年の作、現存せず)を弟子の院朝とともに詳細に測ったり、平等院本堂(現存せず)の仏像のどれが定朝作でどれがその父の康尚(こうしょう、こうじょう)の作であるのかを見分けたといったエピソードが伝えられているんだよ。
 生まれた年、死んだ年は残念ながらわかっていないんだけど、記録からは1110年代から1130年代にかけての二十数年間の活躍が知られているんだ。
 実はこの院覚、当時の政治状況に翻弄された仏師なんだよ。
 活躍時期のはじめの頃、院覚は主として摂関家の造仏を担当していたんだ。ところが、1120年、当時摂関家の中心人物であった藤原忠実(ただざね)が白河法皇の怒りに触れ、失脚してしまうという事件(保安元年の政変)がおこり、院覚はこの事件に巻き込まれ、追捕されてしまったんだ。

百花さん それって、逮捕されちゃったってこと? 仏師が?

ゆいまくん そうなんだよ。この時、忠実の側近などは捕まったりしていないので、なぜ仏師である院覚だけがそうなったのか、謎が残る事件なんだけどね。幸いすぐに釈放されたけど、ここまで自分を引き立て使ってくれていた忠実が勢力を失ってしまったため、仕事もないという状況となってしまった。
 1129年に白河法皇が亡くなると、院覚は復活を果し、それ以後は待賢門院関連の造仏を数多く手がけていく。法金剛院の阿弥陀如来像の造仏もこの時期のものというわけだ。
 院覚は定朝様を踏まえつつ、いっそう優美さ、華麗さに磨きをかけた仏像をつくって、待賢門院の期待によく応えたのだと思う。
 しかし、その待賢門院は鳥羽上皇の寵愛を次第に失い、やがて出家し、数年後に生涯を閉じる。そして、待賢門院が力を失うのと時を同じくして、院覚もまた歴史の舞台から消えていってしまうんだよ。

百花さん 1体の仏像には、つくった人、つくらせた人、守り伝えた人… たくさんの物語が秘められているのですね。


(注)
* たとえば『長秋記』(源師時の日記)には、院覚は定朝の曾孫であると書かれている。しかし、実際に血縁関係があるのかは不詳。