1-6 まさかの消去法? 本来、どのお堂にまつられていたか
百花さん 法金剛院には3つの阿弥陀堂があったんですよね。西御堂、南御堂、東御堂…だったっけ。この阿弥陀さまはその中のどのお堂の像だったのか、わかっているのかな。
ゆいまくん 1130年に法金剛院が待賢門院によって開かれたとき、最初につくられたのが西御堂と御所だ。阿弥陀の極楽浄土ははるか西方にあるとされているので、池の西側のお堂に阿弥陀仏をまつり、池の東側には御所を設けて、そちらから阿弥陀仏を拝んだのだろうね。
南御堂がつくられたのは、1139年。このお堂には9体の阿弥陀仏がまつられたので、九体阿弥陀堂ともいわれるんだ。この時代、臨終にあたって阿弥陀仏の来迎を願う信仰が非常に高まっていたんだけど、阿弥陀の来迎はその人の生前の行いから9通りの形に分かれるとされ、それに対応して9体の阿弥陀如来像をまつるお堂をつくることが行われたんだ。長大なお堂の壇上に阿弥陀仏の像がずらりの並んでいるさまは、実に壮観だったことだろうね。
そして、最後につくられたのが東御堂。待賢門院の死後、娘の上西門院(じょうさいもんいん)よって1171年に供養されたんだ。
この阿弥陀如来像は西御堂の本尊、つまり待賢門院が最初につくったお堂に安置された像だと考えられているんだよ。
百花さん このお寺には阿弥陀如来像が西御堂に1体、南御堂に9体、東御堂に1体まつられていたのに、実際に伝わったのは、その中の1体だけ。そして、今、法金剛院に伝わっている阿弥陀如来像は西御堂の像なんですね。でも、どうしてそうだってわかったんですか。あ、もしかして、像内に何か書いてあるとか。
ゆいまくん 仏像によっては像の内部に銘文が書かれていたり、制作時に籠められた納入品の中に造像のいきさつが書かれていたりする例もあるけど、この仏像にはそうしたものはないんだ。しかし、幸い各堂の仏像の大きさや若干の特徴が記載された記録(「古徳記」*
という史料)があり、これが重要な手がかりを与えてくれている。この記録から、今に伝わる阿弥陀如来像はもと西御堂の像だと推定されているんだよ。
少しややこしいかもしれないけど、説明していくね。
百花さん ややこしいのか… 私あまり長い話を聞くのは苦手だから、短めにまとめてほしいな。
ゆいまくん …なるべく努力するよ。
法金剛院の阿弥陀如来像の像高は224センチ。メートル法以前には仏像の大きさは丈、尺、寸といった単位によってあらわされていて、1丈は約3メートル、1尺は約30センチ、1寸は約3センチなんだ。こうした古い単位によってこの仏像の大きさを表現すると、像高は7尺と8尺の間ということになる。坐像だから、仮にこの仏像が立ったとするとその2倍、すなわちおよそ1丈5尺の高さということになるね(頭頂からでなく髪際から計るともう少し小さくなる)。
さっきも話したけど、釈迦はとても大きかったと伝えられていて、その身長は1丈6尺、約480センチだったという。これが仏像の標準的な大きさなったんだ。1丈6尺だから丈六(じょうろく)というんだよ。実際にはそれよりも小型の仏像も多くて、半丈六像(丈六の半分の大きさ)や等身像(人の背丈と同じくらい)、またもっと小さな仏像もさかんにつくられている。なお、周という古い中国の国では同じ1丈でもやや短めであったので、少し小ぶりの丈六像を周丈六という場合がある。
法金剛院の阿弥陀如来像はちょっと小さいけど、丈六仏の範疇に入り、周丈六の像ともいえるね。
ここまでどうかな。ついて来れている?
百花さん …えっと、何とか。いろんな大きさの仏像があるけど、標準は丈六像で、ちょっと小さめなのが周丈六。法金剛院の阿弥陀如来像もこの大きさでつくられているっていうことね。
ゆいまくん そうだね。
では、法金剛院にかつてあったお堂の仏像の大きさがどうだったのか。「古徳記」によって、西御堂の本尊は丈六、南御堂の9体の阿弥陀如来像のうちの中央の仏像(中尊)は半丈六 ** で、他の八体の阿弥陀如来像は等身、そして東御堂の本尊は周丈六の大きさだったとわかっているんだ。
百花さん すごーい。記録にそれぞれの仏像の大きさが書いてあるんだ。
ということは…、えっと、今の法金剛院の本尊は周丈六だから、東御堂の像の大きさと同じだね。
ゆいまくん そうなんだけどね、「古徳記」には東御堂の本尊の光背に関する記述があって、今の本尊の光背(当初部分)とどうも合わないんだ ***。このことから、東御堂の本尊ではないとわかる。南御堂の像は大きさが合わないし、そうすると、残るのは西御堂の本尊ということになるわけだ(周丈六も広い意味では丈六像なので矛盾しない)。
百花さん 史料の分析を通して、西御堂の本尊とわかってきたのですね。でも、消去法っていうのがちょっともやもやするけど…
ゆいまくん そうかい? 決して多いとはいえない手がかりを駆使して核心に迫る鋭い考察と言えると思うよ。この結論は、同時代の他の仏像と顔立ちの比較研究によっても補強されているんだ ****。
そして、こうした研究の積み重ねによってこの仏像の位置づけが定まったことで、国宝指定へとつながったとも言えるんだ。
(注)
* 「古徳記」は「仁和寺諸院家記」、「法金剛院古今伝記」の中に引用されて伝わっている史料。参考文献中の「法金剛院阿弥陀如来像について」(井上 1971)を参照のこと。法金剛院に関する古記録が仁和寺の史料の中に伝わるのは、法金剛院が本来仁和寺の子院という位置づけでスタートした寺院であったからと思われる。
** 南御堂の像は丈六か半丈六か、「古徳記」の記述は写本により分れるが、史料の分析から半丈六像と考えられている。また、脇の八体が等身なので、唯一現存している浄瑠璃寺九体阿弥陀仏の像も参考に、バランスからも半丈六ではないかとされる。
*** 「古徳記」によれば、東御堂の阿弥陀如来像の特色として光背にとりつけられた鏡面に化仏や梵字が描かれていた。しかし、現在の阿弥陀如来像の光背(当初部分)にはそうしたものにあたる部分が見いだせない。
**** 醍醐寺に伝わる閻魔天像も待賢門院がつくらせた仏像(出産時の修法の本尊と考えられている)である。作者は不詳だが、院覚周辺の仏師と考えられる(仏師院覚については、次の章をお読みください)。両者の顔立ちには共通するところが多い。