1-2 法金剛院をつくった待賢門院ってどんな人

現在の双ヶ丘(南側から見たところ)
現在の双ヶ丘(南側から見たところ)

ゆいまくん 法金剛院の西側には、双ヶ丘(ならびがおか、雙ヶ丘、双丘などとも書く)という標高100メートルほどの丘陵があってね、ちょうど平安京の北西の隅にあたっていて、ビルが建ち並ぶ今とは違い、昔はとても目立っていたらしい。その麓は風光明媚な土地柄とされて、貴族たちが山荘を構えたそうだよ。

百花さん 「都心から最も近い観光地」っていう感じだったのかな。

ゆいまくん そうかもしれないね。
 平安時代初期に活躍した貴族、清原夏野(きよはらのなつの)も山荘を設けた1人で、天皇や上皇も訪れたりした。夏野の死後、山荘は双丘寺(そうきゅうじ)というお寺となり、いつも美しい花で彩られていたために、この場所に花園という地名が生まれたといわれているんだ。

百花さん それがJRの駅名にもなり、法金剛院が花の寺として知られていることにもつながっているのね。

ゆいまくん 双丘寺はのち天安寺と名前が変わったりしたけど、それもいつしか衰退してしまったんだ。その跡につくられたのが、この法金剛院なんだよ。

百花さん お寺を開いたのは待賢門院っていう人だそうだけど、これって本名…じゃないですよね。

ゆいまくん 藤原氏出身の女性で、待賢門院というのは女院(にょいん)号なんだ。
 法金剛院が創建された平安時代末期は、藤原氏による摂関政治は続いてはいるけど全盛期はすでに過ぎていて、白河、鳥羽、後白河の3代の上皇(のち法皇)による院政がおこなわれたんだ。だから、この時期のことを院政時代ともいうんだよ。
 法金剛院を開いた待賢門院は、名を藤原璋子(しょうし、たまこ)といい、院政時代を生きた女性だ。藤原氏の出身でありながら、わけあって白河院の娘分のようにして育てられ、長じて鳥羽天皇のきさきとなり、のちの崇徳天皇や後白河天皇を産む。権力にとても近いところにいた女性ということだね。待賢門院というのは、彼女に授けられた女院号なんだよ。女院というのは、天皇の母やきさきなどに与えられて、上皇に準じる処遇を受けた女性のことをいうんだ *。

百花さん とてもすごい人ってことね。藤原氏の生まれで、育ての親が白河院で、夫も子どもも天皇なんだ。それで、自分のお寺を開いて、庭園も思い通りにつくらせて… それじゃあ、申し分のない満ち足りた人生だったんだろうね。このお寺を開いたのは、何歳くらいの時だったのかな。

ゆいまくん 法金剛院を開いたのは、30歳のころ。しかしその頃、夫の鳥羽上皇の寵愛は美福門院(びふくもんいん)へと移ってしまうんだ。待賢門院は失意のうちにここ法金剛院で出家し、やがて40代半ばでその生涯を閉じた ** 。たしかにこれ以上望むべくもない家柄の方だけれども、晩年は寂しかったと思うよ。

百花さん そうなんだ…
 それで、つくられた時には、どんなお堂が建てられていたの。今も伝わるお堂はあるのかな。

ゆいまくん 創建時の法金剛院に建っていたお堂はね、まず西御堂と女院の御所。最初はこの2棟で、その後南御堂や三重塔などがつくられ、待賢門院の死後に東御堂が加えられたんだ。それぞれの御堂は池を中心に配置されて、壮麗な伽藍(がらん、寺院を形成する建物群のこと)を形成していたんだよ。極楽浄土がこの世に出現したものかと、見る者をさぞかし感嘆させたことだろう。
 でもね、残念なことに、法金剛院の創建期の建物で現代に伝わるものは1つもないんだ。
 15世紀の応仁の乱にはじまる戦国時代の動乱や桃山時代から江戸時代初期にかけて繰り返し襲った地震による被害、また、明治期に入ると鉄道を通すということで境内が狭められたりもした。そうしたいくつもの災害や時代の移り変わりのために、在りしの日の絢爛たるその伽藍のありさまをしのぶよすがとなるのは、現本尊の阿弥陀如来像と復元された庭園だけになってしまった。
 失われた西御堂、南御堂、東御堂はすべて阿弥陀如来像を本尊とする阿弥陀堂で、中でも南御堂は九体阿弥陀堂、すなわち9体の阿弥陀仏が安置されていたんだ。それらすべての阿弥陀如来像のうち、わずかに1体だけが今日まで伝わって、それが法金剛院の現本尊なんだよ。
 この阿弥陀如来像を私たちが拝観できるのは、戦乱や地震などの苦難の中を命がけで守り抜いた人々がいたおかげなんだ。このことを忘れないようにしたいものだね。

百花さん かつての法金剛院は池を囲むようにして3つもの阿弥陀堂がつくられていたのね。でも、どうして1つのお寺の中に阿弥陀堂をいくつもつくったのかな。お堂ごとにいろいろな仏像をまつった方がご利益も期待できるし、テーマパークっぽくなって楽しいと思うけど。待賢門院さんに会えたら、そうアドバイスしてあげるのにな。

ゆいまくん 待賢門院の晩年は心寂しい日々だったようだから、百花さんのような人が訪ねていったら喜んだかもしれないけどね。でも、そのアドバイスはどうかなあ。院政期には、阿弥陀仏にすがって極楽往生を遂げたいという信仰がたいそう強くなっていてね、そのための善なる行いとして、権力者たちは競うようにして阿弥陀堂をつくり、多くの阿弥陀仏の像をまつろうとしたんだ。

百花さん 阿弥陀仏への信仰がとっても高まっていたという時代背景があったのですね **。

(注)
* 女院は藤原道長の姉の東三条院にはじまり、幕末まで続いた。はじめは天皇の母やきさきなどが出家した場合に与えられたが、のちには天皇の母やきさきでない人、出家していない人、未婚の皇女などにも与えられた。

** ただし、待賢門院は法金剛院の御所に常駐したわけでなく、三条高倉第の御所を主たる住まいとした。亡くなったのもそこで、遺体は法金剛院へと運ばれ、五位山の北東中腹に設けられた御陵(花園西陵)に埋葬された。なお、出家後の待賢門院の絵姿が法金剛院に伝えられている。『法金剛院』(シリーズ「京都の古寺から」9、淡交社)や『待賢門院璋子の生涯 椒庭秘抄』(角田文衛著、朝日選書)に図版が掲載されている。

*** 12世紀後半に書かれた「伊豆堂供養表白」(『転法輪鈔』)には、京都の寺の9割は本尊が阿弥陀如来であると書かれる。誇張もあるかもしれないが、阿弥陀如来をまつるお寺、お堂が大変多かったことは確かであろう。一方、法金剛院の場合3つの阿弥陀堂のほかに、一字金輪像をまつる北斗堂、大日如来像をまつる三重塔、釈迦像をまつる経蔵などが建てられており、多くの種類の仏をまつり、加護を得たいという信仰もさかんだったといえる。