1−11 法金剛院阿弥陀如来像 関係年表
830年 清原夏野の山荘を淳和天皇が訪れる。この時山荘は「新造」であったということなので、この少し前につくられたものとわかる。
837年 清原夏野、死去。山荘は双丘寺に改められたという。
857年~858年 双丘寺を天安寺と改める。
1101年 藤原璋子(のちの待賢門院)、生まれる。父は権大納言藤原公実。
1114年 院覚、藤原忠実の命によって丈六阿弥陀如来像をつくる。これが院覚が記録にあらわれる最初。以後1120年まで、院覚は摂関家関係の仏像を手がけるが、いずれも現存せず。
1118年 藤原璋子、鳥羽天皇のもとに入内、中宮となる。
1119年 藤原璋子、第1皇子を出産(のちの崇徳天皇)。以後、男子4人、女子2人を産む。
1120年 院覚、醍醐寺釈迦堂中門の二天像をつくる(現存せず)。
1120年 保安元年の政変で藤原忠実が失脚。院覚、追捕される。以後、1129年まで院覚の活躍記録なし。
1123年 鳥羽天皇が譲位し、鳥羽上皇となる。崇徳天皇、即位。
1124年 藤原璋子、待賢門院の号を受ける。
1124~1129年 醍醐寺閻魔天像の造立、この時期か(待賢門院の出産時の閻魔天供本尊と考えられている。作者は不詳)。
1129年 白河法皇、死去。鳥羽上皇、院政を開始。
1129年 院覚、鳥羽上皇の命により白檀製の普賢菩薩像をつくる(『長秋記』によれば、「生身を見るが如し」とあり、すぐれた出来ばえであったようだ)。
1130年 院覚、待賢門院の御願により地蔵菩薩像をつくる。布製の法服を着せ、わらじをはかせるという姿で、宋の仏像にならったものという。現存せず。
1130年 待賢門院、天安寺の跡地に法金剛院を創建。造仏賞として院覚が法橋位を受けていることから、御堂(西御堂)本尊の阿弥陀如来像の作者は院覚と知られる。この像が現在の法金剛院本尊の阿弥陀如来像と推定されている。
1132年 院覚、法成寺の塔安置仏を完成させた功によって、法眼位にのぼる。
1133年 待賢門院の命により、法金剛院庭園の青女の滝の高さを上げる。
1134年 院覚、平等院本堂の仏像(現存せず)の作者(康尚、定朝)について発言。
1134年 院覚、弟子院朝とともに西院邦恒朝臣堂の定朝作阿弥陀如来像(現存せず)を詳細に計測する。
1134年 院覚、待賢門院の病気平癒祈願の像として、得長寿院の等身観音像をつくる。
1135年 法金剛院北斗堂つくられる。本尊の一字金輪像ほか諸仏像は円派仏師の賢円が担当。
1136年 院覚、法金剛院三重塔の安置仏をつくる。
1139年 法金剛院の南御堂、三昧堂つくられる。院覚が造仏賞を弟子の院朝に譲っており(院朝は法橋となる)、南御堂の造仏も院覚一門の仕事と推定される。
1141年 『僧綱補任』に院覚の名前あり(院覚の最後の記録)。
1141年 鳥羽上皇が出家し、鳥羽法皇となる。
1141年 崇徳天皇が譲位し、上皇となる。弟の近衛天皇(母は美福門院)が即位。
1142年 待賢門院、出家。
1145年 待賢門院、死去。
1171年 上西門院(待賢門院の娘)により、法金剛院東御堂がつくられる。
13世紀後半 律僧の導御(円覚十万上人)が法金剛院を中興。
1316年 法金剛院十一面観音坐像(仏殿安置)が、13,000人の結縁により造立される(1319年に像の荘厳を含めて完成)。
1594年 法金剛院十一面観音坐像が仁和寺から法金剛院に戻される(台座心棒墨書に、数年間仁和寺に移されていたが、法金剛院に小堂をつくり安置したと書かれる)。この間、法金剛院は衰微したものの、存続の努力は常に行われていたことをうかがわせる。
16世紀末~17世紀はじめ 地震が多発。
1617年 本堂(現礼堂)が再建される。
1897年 二条ー嵯峨間に鉄道が開通(京都鉄道、翌年花園駅開業)。
1901年 法金剛院阿弥陀如来像、旧国宝(戦前の制度、現重要文化財)となる。
1968年~1970年 国道の拡張にともない、法金剛院の境内を調査。庭園遺構が姿をあらわす。庭園の復元、境内の整備が行われ、収蔵庫を兼ねた仏殿もつくられる。
1987年 法金剛院庭園の青女の滝が特別名勝に指定される。
2020年 法金剛院阿弥陀如来像、国宝指定。