願成就院の諸仏
運慶作、一分の隙もない造形の妙
住所
伊豆の国市寺家83-1
訪問日
2007年9月23日、 2022年11月25日
この仏像の姿は(外部リンク)
拝観までの道
願成就院(がんじょうじゅいん)は伊豆箱根鉄道駿豆線の韮山(にらやま)駅の西南にある。
鉄道と平行してその西側を通っている国道136号線に出て南へと歩いて行くと、「右、願成就院0.2キロ」という看板が出ている。
韮山駅から徒歩15分ほど(ひとつ先の伊豆長岡駅からも15分ほどで歩ける)。
火曜日と水曜日は拝観お休み。
拝観料
700円
お寺や仏像のいわれ
この地を根拠地としていた北条氏は、ほど近い蛭が小島に流されてきた源頼朝の姻族となり、やがて鎌倉幕府の中心として活躍していくことになる。その初代が時政であり、彼こそが願成就院を創建した人物である。
鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』によれば、願成就院は1189年に奥州征伐の戦勝を祈願して北条時政によってつくられたとある。ただし、仏像に納められていた銘札から仏像の制作開始年が1186年であることが分かっており、この時点で平泉の奥州藤原氏を討つ計画が具体化していたのかは疑問。奥州征伐の戦勝祈願というのはいわばあと付けで、北条氏による氏寺として建立されたということであろう。
その後、北条氏の勢力が大きくなるにつれて多くの堂塔が甍を並べたが、戦国の動乱や秀吉の小田原攻めなどでそのすべては焼かれた。しかし、創建時のものを含む数体の仏像が今日へと伝えられている。第二次大戦後になって耐火建築の新本堂(大御堂)が建てられ、創建時の仏像が移されている。
大御堂の奥の壇上には、正面に阿弥陀如来坐像、その向って左に毘沙門天立像、右に不動三尊立像がならぶ。運慶壮年期の作である。(これまで毘沙門天像が向かって右、不動三尊像が向かって左であったのが、2022年になって位置を入れ替えた。「転法輪鈔」の「伊豆堂供養表白」の中に書かれていた安置位置に戻したのだと思う。なお、中尊の阿弥陀如来像の光背、台座も新補された)
これらの仏像を造り上げて数年後、運慶はやはり幕府の有力御家人であった和田義盛のために仏像を刻んでいる。それが横須賀市の浄楽寺の諸像であり、阿弥陀、不動、毘沙門という組み合わせも同じである。
これら願成就院の諸仏像は、江戸後期に修理されている。その際不動像と毘沙門天像の像内から銘札が取り出され(阿弥陀像の納入品はそれ以前に失われていたと思われる)、それにはっきりと願主は北条時政、作者は運慶と書いてあるにもかかわらず、願成就院の諸像が運慶作と認められるまでには曲折があった。運慶の初期の作であることが台座天板裏の墨書銘より明らかになった奈良・円成寺の大日如来像との作風の違いから、願成就院の諸仏を運慶作とすることがためらわれたのであろう。銘札は本物だが、仏像は替わっているなどといわれた。
しかしながら、1959年に横須賀市・浄楽寺の毘沙門天像からも運慶作と記された銘札が発見され、浄楽寺の諸仏が運慶作であるという意見が強くなるとともに、願成就院の諸像もまた運慶の手になるものではないかといわれるようになった。さらには不動像の脇侍の童子像内からも銘札が見つかるなどして、ようやく運慶のものと広く認められるようになったのである。
これら願成就院の諸仏はそれぞれ一分の隙のない造形の妙を見せている。今の我々が見れば、これこそまさに運慶の彫刻であると思う。
しかし、かつては運慶真作として円成寺大日如来像、東大寺南大門の仁王像、興福寺北円堂の諸像が知られるばかりであった。当時の研究者たちは、それらのみを基準に、少なからぬ数のさまざまな伝運慶作品を判断しなければならず、いきおい慎重にならざるを得なかったのであろう(雪舟もそうだ。かつて、膨大な伝雪舟が存在する中で真作を確定していく際、慎重を期すあまり雪舟の画風の幅を狭くとらえすぎてしまって、硬直した判断をしてしまうということがあった)。
毘沙門、不動、童子像から取り出された銘札は、現在は大御堂の裏手に設けられた宝物館で見ることができる。
*この運慶作の仏像5躰は2013年、一括して国宝に指定された。
拝観の環境
LED証明のもと、よく拝観できる。ただし、作の手前からの拝観となり、近くまで寄ることはできない。
仏像の印象
大御堂の壇中央の阿弥陀如来像は、像高約140センチ、半丈六の坐像である。手を前に組む説法印の阿弥陀像である。比較的例の少ない印相で、特に平安時代後期にはほとんど見られなかったが、それ以前には作例がある。運慶はもともと奈良に根拠地をもつ仏師集団の一員であり、古典的な仏像に日常的に接し、また研究していたと考えられているが、それはこうした仏像の印相にも現れている。
胸は広く厚く、腰は引き締まり、膝も厚くて迫力がある。衣の襞(ひだ)の彫りも複雑で力強いが、決して不自然でない。
ただし、顔はやや沈鬱な印象である。実はこの阿弥陀像は堂の火災の時であろうか、前面に衝撃を受けている。前で組んだ手や腹、螺髪(らほつ)の前の部分に損傷が見られるのだが、顔にも傷を受けたらしく、彫り直されているらしい。そのために当初の印象と変わってしまっているようで、残念である。目は現在は彫眼だが、かつては玉眼であったようだ。
向って左側の毘沙門天像は、像高約150センチの立像である。毘沙門天は四天王の多聞天の別名。古代の四天王像の多くは邪鬼を踏みしめ、非常に強い怒りの表情を表し、ポーズも誇張して表されるが、この毘沙門像はあくまで誇張した表現をさける。では動きのない静かな像かといえば、そうではない。内に秘めた力が溢れ出てくるような印象がある。目は玉眼で、大きく見開き、鼻は大きく、口はへの字に結び、足を肩幅よりやや開いて堂々と立つ姿は、武人を理想化した姿のようである。こうした像は、運慶が荒々しい東国武士と出会うことで生まれたとする考え方がある(ただし、願成就院や浄楽寺の像を造立するために運慶が関東に下ったという確証はない。畿内で制作し、像のみを送ったという説もあり、決着を見ていない。これは、「運慶の下向・非下向問題」などと呼ばれ、さまざまに論ぜられている)。
中央の阿弥陀像の向って右に安置されているのが不動三尊像である。不動明王立像は毘沙門天像より少し小さい140センチ弱、脇侍の童子像が80センチほどである。毘沙門像と同様玉眼の効果を生かした迫力ある顔だが、腰のひねりは小さく、毘沙門像よりも動きは抑えられている。肌が出ている部分はしわなど最小限しか表現せず、衣の襞(ひだ)も直線的で簡潔にまとめられている。阿弥陀像の複雑な衣とは対照的である。
脇侍はこんがら、せいたかの二童子だが、こんがらは臆病でよく言うことを聞き、せいたかは活発で生意気な性質とされている。その性格の違いを大変よく表現した造形である。
これらの像は、それぞれ1躰ずつでも強い印象を与え、かつ群像としてもすばらしく、まさに運慶の面目躍如である。
なお、像はいずれもヒノキの寄木造。
その他
願成就院にはこのほかに2躰、鎌倉時代の仏像が伝えられている。
そのひとつは、大御堂の裏の宝物館に安置されている地蔵菩薩坐像で、50センチほどの小像だが、よくまとまった像である。像の底の部分に北条政子の追善のためである旨と、「寛喜」の元号が見え、これを信じるならば1230年ごろの作と考えられるが、「政子」や「寛喜」の文字は補筆であるという指摘もなされている。
しかし作風から鎌倉時代前期の仏像であることは確かである。
もうひとつは願成就院の本尊として本堂に安置されている阿弥陀如来坐像であるが、こちらは非公開。
さらに知りたい時は…
「仏師運慶の東国下向について」(『学叢』44)、 淺湫毅、2022年6月
「運慶展X線断層(CT)調査報告」(『MUSEUM』696)、浅見龍介・皿井舞・西木政統、2022年2月
「『願成就院修治記』の世界」(『早雲寺』、神奈川県立歴史博物館、2021年)、渡邊浩貴
『運慶 鎌倉幕府と霊験伝説』(展覧会図録)、神奈川県立金沢文庫、2018年
『運慶』(展覧会図録)、東京国立博物館ほか、2017年
「特集 オールアバウト運慶」(『芸術新潮』2017年10月号)
「願成就院毘沙門天像邪鬼の造形史上の意義」(『MUSEUM』668)、山田美季、2017年6月
『願成就院』、水野敬三郎・山本勉、願成就院発行、2014年
『週刊 新発見! 日本の歴史』19、朝日新聞出版、2013年11月
『月刊文化財』597、2013年6月
「伊豆の仏像を巡る」39〜44(『伊豆新聞』2013年3月3日、3月10日、3月17日、3月24日、3月31日、4月7日)
『運慶』、山本勉ほか、新潮社、2012年
『関東の仏像』、副島弘道編、大正大学出版会、2012年
『鎌倉時代造像論』、吉川弘文館、塩澤寛樹、2009年
「仏像の内部を見る」、山本勉 (『講座日本美術史』1)、東京大学出版会、2005年
「願成就院の造仏と運慶」(『金沢文庫研究』314)、塩澤寛樹 、2005年3月
『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代・造像銘記篇1』、中央公論美術出版、2003年
「静岡・願成就院本尊阿弥陀如来坐像について」(『MUSEUM』576)、塩澤寛樹、2002年2月
『運慶 その人と芸術 』、副島弘道、吉川弘文館、2000年
『頼朝と鎌倉文化』(展覧会図録)、佐野美術館、1991年
『鎌倉地方の仏像』(『日本の美術』222)、田中義恭編、至文堂、1984年
『願成就院』、久野健、中央公論美術出版、1972年