国清寺の釈迦如来像、金剛力士像
仁王像は境外の毘沙門堂の山門に立っている
住所
伊豆の国市奈古谷1240-1
訪問日
2007年9月23日、 2022年11月25日
拝観までの道
国清寺(こくせいじ、こくしょうじ)は、三島から伊豆箱根鉄道駿豆線で6つめの原木(ばらき)駅から東へ約3キロ。
バスの便が悪く、筆者は伊豆の国市のレンタサイクルを使った。前日までに予約するシステムで、使いやすく、後述のように毘沙門堂までは上り坂が続くので、電動アシスト付きが威力を発揮し、快適であった。
釈迦如来像が安置されている釈迦堂は日中開扉されているが、『静岡県で愉しむ仏像めぐり』(静岡新聞社、2022年)によれば、お寺の管理をしている塔頭の高岩院さん(国清寺に入ってすぐ右側)の都合で拝観不可の時があり、念のため事前にお聞きして行くのがよいとある。
拝観料
志納
お寺のいわれ
寺伝によれば、国清寺は南北朝時代に畠山国清がこの寺を開いたのでその名があるという。室町時代にはたいそう栄えた禅寺であったようで、今も広い寺域を占める。緑におおわれ、すがすがしいお寺である。
国清寺に属する毘沙門堂は頼朝が文覚に建てさせたというが、その真偽のほどはともかくも、仁王像は鎌倉時代のものなので、国清寺自体よりも歴史があることは確かである。毘沙門堂の本尊も古いものであるらしいが、秘仏で通常は拝観できない(50年ごと開帳、その間に中開帳あり)。
釈迦如来像の印象
国清寺境内の中心にある釈迦堂の本尊、釈迦如来像は、近年の修復で面目を一新した。
左肩以下や脚部等後補や新補の部分が多いが、若々しい表情や胸もとに内衣が見えているところなど、鎌倉彫刻の魅力が感じられる像である。
国清寺の毘沙門堂仁王門
国清寺の毘沙門堂(授福寺、授福閣とも)はお寺の東南方向に約1キロ半ほど林道をのぼったところにある。
国清寺の前の道をさらに先(南)へと進み、最初の分かれ道で左へ、すぐ突き当たるので、そこをさらに左へとる。あとは一本道で、分かりやすい。次第に急坂になるが、舗装された林道である。
途中、蛇石、大日石など七つ石と呼ばれる巨石があり、ここが古くからの信仰の道であることが知られる。頼朝と同時代に伊豆に流された僧文覚(もんがく)の配流の地と伝わる場所もある。
国清寺から徒歩であれば20分か25分ほど、自転車では10分とかからず、道の左側に毘沙門堂の看板が出ているところに着く。石の鳥居をくぐって石段をのぼると、仁王門が見えてくる。山あいの狭い場所に建てられており、小さな可愛らしい門である。
仁王像について
仁王門には、左右に2メートルを越える仁王像が安置されている。狭いスペースにやっと納まっている感じで、全身を拝観することも難しいが、大きな手、外側に翻る衣の裾など魅力的である。大きな像だが、どことなく微笑ましくも感じられ、ここまで登ってきた疲れも忘れて見入ってしまう。
筋肉が異様に誇張されてごつごつとしたこぶのようにあらわされている像もあるが、こちらの仁王像はすっきりとした像容である。カヤの寄木造。天衣(てんね)などは後補。
向かって右側が阿形像で、体全体に動きがある。首を向かって左に回し、口をあけて強い怒りを発するが、その一方で親しみが感じられる。
左の吽形像はどっしりして動きは少ない。鼻をふくらませ、口をへの字に曲げた顔立ちが印象的である。
阿形の背板に墨書銘で1310年の年記と仏師として描門大弐(?)法眼印照の名前および江戸時代中期の修理銘がある。吽形の背板にも墨書があり、1310年の年が記されている。
その他(寺名について)
国清寺の名前は、畠山国清からきているという説のほかに、中国の名高いお寺である天台山国清寺からとったという説がある。
畠山国清と国清寺との間に関係があるのかないのかは地元郷土史にとっては重大な問題であるようで、伊豆の国市の前身である韮山町および伊豆長岡町の町史は、いずれもこの問題にかなりのページ数を割いている。結論を言えば、直接の関係はないようである。
畠山国清は北朝方の有力武将で、一時は伊豆国など数カ国の守護を兼ねたが、失脚し、最後は京都で窮死したという。その悲運の武将を悼み、たまたま同名であったことから、この寺の開基であるという伝承が生まれたのではないか。実際の開基は関東管領の上杉憲顕であるという。
さらに知りたい時は…
『静岡県で愉しむ仏像めぐり』、大塚幹也編、静岡新聞社、2022年
『仏像再興』、牧野隆夫、山と溪谷社、2016年
『静岡県史 通史編』2、静岡県、1997年
『静岡県の文化財ー彫刻』、静岡県教育委員会文化財課、1978年