善重寺の聖徳太子像
毎年2月22日に開扉
住所
水戸市酒門町2096-2
訪問日
2009年2月22日
この仏像の姿は(外部リンク)
拝観までの道
善重寺は水戸駅の南西にある浄土真宗のお寺。
門前を通るバス路線があるが、本数は少ないので、近くを通るバスで比較的本数の多い路線を探すと、水戸駅北口3番乗り場からの本町経由の茨城交通バスがあった。「本町三丁目」で下車し南に約15分だった。
バス以外の交通手段としては、水戸駅南口から徒歩(35〜40分)かタクシーになる。
聖徳太子像は、寺の門を入って左手の太子堂に安置されている。真新しい八角円堂で、2008年に建て直されたのだそうだ。
ご開帳は年1度で、聖徳太子の命日とされる2月22日、午前11時ごろから12時ごろまでの約1時間である。
拝観料
特に定めはない。
お寺や仏像のいわれ
鎌倉時代初期の1207年、法然、親鸞の唱える専修念仏の教えが弾圧され、法然は四国へ、親鸞は越後(新潟県)へと流される。親鸞は許された後もすぐには京へ戻らずに東国各地で布教を続けて20年に及ぶが、この時根拠地としたのが常陸国(茨城県)であった。
各地で親鸞は多くの弟子を育成した。彼らの中には今日まで続く浄土真宗寺院を建立したものもあった。水戸の善重寺もそのひとつで、建立した善念房はもと武士、三浦義重といい、鹿島神宮詣での際に親鸞に出会い、弟子となったという。
善重寺はもとは笠間にあったが、何度か移転し、現在の地で再興したのは水戸光圀であったと伝える。
聖徳太子像は、もとは別の寺院に伝わったものを光圀がこの寺に移したものだそうだ。
拝観の環境
ご開帳の時間にうかがうと、20分くらい正信偈などの読誦があって、そのあとお堂の中でゆっくり拝観させていただくことができた。
堂内は照明もあり、厨子の中に安置されているが側面の扉も開けてくださっていて、像までの距離も近く、とてもよく拝観できた。
仏像の印象
像高は130センチ余りの立像で、ヒノキの寄木造、玉眼である。鎌倉時代後期の作と推定される。保存状態は極めてよく、指(一部)、持物、台座を後補とするが、他は当初のままである。彩色が極めてよく残り、頭髪は黒々とし、顔は白く、唇は赤く、また衣服の赤や緑も鮮やかである。服は顔料を盛り上げるようにして模様を描いている。靴の質感も素晴らしい。
頭髪は中央で分け、左右で束ねて垂らす「みずら」という形で、一般に少年の姿とされる。顔は引き締まり、目や眉をすこし上げ、唇を強く結ぶ。なかなか厳しい顔つきだが、この時代の聖徳太子像の中にはもっと強い顔つきの像があり、その中では比較的端正な像といえる。
左手に香炉を右手には笏を持つが、みずらの髪で香炉を持つ太子像は一般に「孝養(きょうよう)像」と呼ばれ、16歳の時に父の天皇の病気平癒を願った姿とされる。聖徳太子像の中で最も多くつくられた姿である。
ほぼ直立する。横から見ると絶妙のバランスで立っていると感じる。手先は小さく、繊細である。何枚も着物を重ね着しているが、一番外側には袈裟をつけ、その端は鋭角を描いて左手先へと伸びる(本来は紐がついていて指に引っ掛ける形だったと思われる)。袈裟の襞(ひだ)は深くダイナミック。鎌倉時代の肖像彫刻の傑作である。
その他
京都府宇治市の正覚院というお寺に、やはり130センチくらいの立像で、彩色がよく残る毘沙門天像が伝来している。この像は足のほぞの墨書から朝円という14世紀前半に活躍した円派仏師の作と知られるが、善重寺の聖徳太子像はこの正覚院毘沙門天像と作風が近いという指摘がある。
さらに知りたい時は…
『聖徳太子信仰 鎌倉仏教の基層と尾道浄土寺の名宝』(展覧会図録)、神奈川県立金沢文庫、2019年
『法然と親鸞 ゆかりの名宝』(展覧会図録)、東京国立博物館ほか、2011年
『親鸞 茨城滞在20年の軌跡』(展覧会図録)、茨城県立歴史館、2010年
『中世真宗の美術』(『日本の美術』488)、津田徹英、至文堂、2007年1月
『奥州仏教文化圏に遺る宗教彫像の基礎的調査研究』、有賀祥隆ほか、2006年
「善重寺蔵 聖徳太子立像」(『国華』1326)、津田徹英、2006年4月
『中世の童子形』(『日本の美術』442)、津田徹英、至文堂、2003年3月
『茨城彫刻史研究』、後藤道雄、中央公論美術出版、2002年
『聖徳太子信仰の美術』、 東方出版、1996年