不動寺(宮田不動)

  1月28日に開扉

住所

渋川市赤城町宮田

 

 

訪問日 

2007年1月28日

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

渋川市観光情報・旧赤城村地区の指定文化財

 

 

 

拝観までの道

不動寺(宮田不動)は、上越線の渋川駅と敷島駅の間にある。敷島駅の方がやや近く、歩けない距離ではないが、30分くらいかかるようだ。

バスでは、渋川駅前から敷島駅前を経由する深山行き関越交通バスに乗車し、「不動前」下車。ただし、バスの本数は少ない(2時間に1本程度)。

 

 → 関越交通バス

 

バス停から少し渋川駅寄りに戻ると、左手に仏さまの開扉を知らせるのぼりが見える。だるまを売る露天や食べ物の屋台も出て賑やかである。かなり急な階段を登っていくと、岩山にくっついたように建てられたお堂の正面に出る。

不動明王立像は堂の奥の岩窟内に安置されている。

ご開帳は1年に1回、1月28日のみ。

*10名以上であれば、他の日でも見学の調整をしてくれるらしい。問い合わせは赤城歴史史料館へ。

 

 

拝観料

ろうそく代として100円

 

 

仏像のいわれ

江戸時代の史料によると大変尊崇を集めていたようだが、近代には忘れ去られた存在となっていたらしい。1934年に調査が行われた時には、洞くつの中で倒れていたという。

この仏像は腰のあたりで上下2材に分かれており、その断面部分に黒漆を塗った空洞が作られ、そこに紙本の種子曼陀羅や倶利迦羅龍図の断片などが納められているとともに、断面にかなり長文の銘が書かれているのだが、像が倒れていたために、この時にそれが偶然発見されたという。

 

銘文によれば、制作年代は鎌倉中期の1251年、願主は源氏の流れをくむ新田氏の一族である里見氏義、仏師は定調(定朝のことか)の流れをくむ院隆、院快であると書かれている。この院隆、院快については他に作例は知られないが、名前から院派の仏師と思われる。

院派はもちろん木彫の仏師の派であり、こうした石彫の仏像を手がけるのは非常に珍しいことといえるだろう。石窟内にもかかわらず磨崖仏でなく丸彫りとしたこと、石材を分けて作り、納入品や銘文を胎内に残したことは、木仏師だからこその発想と考えられる。

 

 

拝観の環境

年1度のご開帳とあって、近在から善男善女が集まり、堂の入り口から奥へと列を作る。堂の上がり口でゆっくり拝観をと言われたが、構造上大勢の人が一度に見られるようにはできていないので、後ろに大勢並んでいるのを見ると、筆者のように少々図々しい人間でも、やはりゆっくりとはしていられない。

堂内は照明がつけられ、近くまで寄れるのでよく見えるものの、じっくり拝観というわけにはいかないのは残念であった。

 

 

仏像の印象

像高は約165センチと、ほぼ等身大の立像。

院派らしい落ち着いた作風であるが、同時にいかにも鎌倉彫刻といった堂々たる存在感がある。中世の傑出した石造彫刻であると思う。

 

 

その他

石材は凝灰岩である。古代の石仏の多くは固い花崗岩に彫られているが、平安時代の一時期石仏はあまり造られなくなり、平安後期から鎌倉時代にかけて再び石仏が造られるようになった。その際に木仏師がやわらかな凝灰岩を用いたのだと『日曜関東古寺めぐり』で述べられているが、この仏像はまさにそうした例にあたるのであろう。

ただし、この像が院派仏師の作であることに否定的な説もある(下の「東国における院派仏師の動向」を参照のこと)。

 

なお、群馬県立歴史博物館の常設展示室でレプリカが展示されている。像のボリューム感など、よくわかる。

 

 

さらに知りたい時は…

「ほっとけない仏たち60 宮田不動尊の石造不動明王」(『目の眼』531)、青木淳、2020年12月

「不動寺 不動明王立像」(『国華』1216)、山本勉、1997年

『日曜関東古寺めぐり』、久野健ほか、新潮社とんぼの本、1993年

「東国における院派仏師の動向」(『中世彫刻史の研究』、有隣堂、1988年)、清水眞澄

『解説版 新指定重要文化財3 彫刻』、毎日新聞社、1981年

 

 

仏像探訪記/群馬県