将軍地蔵堂と大乗寺跡の地蔵石仏
鎌倉時代後期の石仏の名品
住所
福岡市東区箱崎6-6-17(将軍地蔵堂)
福岡市博多区上川端町6(大乗寺跡)
訪問日
2016年3月6日
この仏像の姿は(外部リンク)
将軍地蔵堂について
将軍地蔵堂は鎌倉時代の石造地蔵菩薩坐像を安置するお堂である。どこのお寺にも属さず、「将軍地蔵教会」として地域の方がお守りしている。
場所はJR鹿児島本線の箱崎駅から北へ徒歩約10分。または市営地下鉄箱崎線の貝塚駅または箱崎九大前駅からも徒歩圏内である(約15分)。
鹿児島本線の線路の西側に、南向きに建つお堂だが、江戸時代にはここより西側、現九州大学(ただし移転予定)の敷地にお堂があったという。大学の建設にともなって現在地に移った。
夏にご開帳の日が決まっているらしいが、市の文化財保護課を通じてお願いしたところ拝観させていただくことができた。
志納。
将軍地蔵尊の印象
ほぼ丸彫に近い地蔵菩薩像で、平清盛の長子重盛が宋から将来したという伝えがある。古くから将軍地蔵と呼ばれている。
ほぼ等身大、像高80センチ余りの坐像である。
上半身や膝は堂々としている。残念ながら顔は摩滅が進んでいるが、よく見ると、細い目は優しい表情をかもしだしている。
衣は簡潔にあらわし、光背も簡略で、上に化仏をひとつだけつける。しかし光背の脚にあたる部分(光脚)や台座の蓮弁など、細かくつくられている部分もある。
花崗岩製である。材質の美しさが全体の美しさをさらに引き立てている。
大乗寺跡について
福岡市の中心部、地下鉄の中洲川端駅と祇園駅の間に、かつて大乗寺というお寺があった。法皇山という山号であったといい、鎌倉後期に亀山法皇ゆかりのお寺としてつくられたと伝える。
西大寺流律宗だったが、のちに浄土宗、さらに真言宗に転じた。
20世紀なかばの戦火もあって衰亡し、宗像市の鎮国寺に吸収されてなくなったそうだ。
その跡地はその後冷泉(れいぜん)公園および冷泉小学校となったが、小学校もまたのちに廃校となった。この旧小学校の北の隅に大乗寺に関連する石碑や石仏が集められている。
中洲川端駅から東へ徒歩約5分。見学は自由。
大乗寺跡の石仏の印象
道路に面した区画の中に、「亀山天皇勅願石」(ただしこの碑は鎌倉時代後期に在位した亀山天皇に関するものでなく、実際には南朝最後の天皇である後亀山天皇についての碑であるらしい)などとともに地蔵石仏板碑が置かれている。
高さは約180センチ。板状の玄武岩に浮き彫りにされた地蔵三尊像で、土に埋まっていたことがあったといい、割れた上部を接合したあとがある。
薄肉彫りであらわされ、衣文等は線刻、絵画的な表現をみせる。
頭光を負い、錫杖と宝珠を持ち、蓮華に乗る。蓮華の下には雲が表現されているので、来迎の地蔵なのであろうか。ゆったりと威厳をもって立つ、魅力ある仏像である。
左右の下には髪をみずらに結ったわらべと大きな笏をもった文官が従っている。面白い形式の三尊である。
雲を刻んだの下方には1345年を指す年と、50名近い僧俗の交名が彫られているのも貴重である。
さらに知りたい時は…
『福岡県の仏像』、アクロス福岡文化誌編纂委員会、海鳥社、2014年
「福岡市東区箱崎松原勝軍地蔵石仏と米一丸層塔」(『御影石と中世の流通』、高志書院,、2013年)、桃﨑祐輔、
「九州西大寺末寺の美術遺品」(『仏教芸術』199)、八尋和泉、1991年11月
「博多大乗寺跡地蔵石仏」(『 史迹と美術』24巻8号)、与崎淳、1954年10月