金目山光明寺の金剛力士像
神奈川を代表する仁王像

住所
平塚市南金目896
訪問日
2025年2月24日
この仏像の姿は(外部リンク)
平塚市・文化財
拝観までの道
東海道線の平塚駅北口と小田急線の東海大学前駅南口を結ぶ神奈川中央交通バスに乗車し、「金目駅」下車、南にすぐ。バスの便数は1時間に1本程度。
拝観料
特になし
お寺や仏像のいわれなど
金目(かなめ)山光明寺は天台宗寺院。坂東三十三観音の第7番霊場。金目観音とも呼ばれる(金目は地名で、戦後平塚市と合併する以前はこの地区は金目村といった)。
702年に相模の海中より出現した観音像をまつったことにはじまり、行基が観音像を自ら彫って、海中出現の霊像を込めたともいう。
実際にこのお寺の歴史が8世紀までさかのぼれるものかはわからないが、少なくとも平安時代の終わりまでには広く信仰を集めた寺院になっていたことは確かである。というのも、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』に、鎌倉時代初期の1192年に頼朝の妻、政子の安産祈願を行わせた相模国内27の社寺の1つとして登場しているからである(ほかにも、同年、翌年の後白河法皇の49日法要、1周忌法要の記事にも登場)。
しかし、この記事には光明寺の寺号は見られず、「観音寺金目」と書かれている。どうやら光明寺の名乗りはそれよりも遅く、かつては観音寺、あるいは観音堂と称していたらしい。そして、その管理、運営を行う別当寺院としてのちに光明寺がつくられ、次第に両者は一体のものとなっていったということのようだ。
14世紀前半に鎌倉幕府が滅ぶと、鎌倉に宝戒寺が開かれ、光明寺はその下に入った。この頃、やはり鎌倉にある浄光明寺との間で所領争いが長期間続いたという。
戦国時代となり、旧勢力が次々と没落していく中、光明寺は観音信仰の寺として地域の人々の手によって寺運を盛り返した。この時期(15世紀末)、本堂(観音堂)が再建され、本尊を安置する本堂内の厨子、本尊前立ち像が作られ、また本尊修理や仁王門の金剛力士像再興などの事業が行われた。
拝観の環境
金剛力士像が安置される山門は南面し、南側(正面の側)はガラスが入っているため、映り込みでほとんど見ることはできない。内側は金網になっており、横からの姿を見ることができる。
仏像の印象
金剛力士像は像高3メートル近い大きな像で、横浜市・称名寺の像と並んで神奈川県内の仁王像の代表的作例といえる。
通例のように、向かって右に阿形像、左が吽形像が置かれている。
材はケヤキ。
細面で、眉を高々とあげ、目を大きく見開く。顎はしっかりと作る。力強い顔立ちではあるが、それほど誇張を加えてはいない。全身の力を放出する阿形、気を溜めて力を内に込める吽形、2体のバランスがよく取れている。
体も大きく逞しく作るが、コブを誇張してつくったりはしていない。
下半身の衣は厚めで自然な流れを作っているが、やや形式的になっている。
吽形像内の左内腿の部分に銘文があり、「光明寺二王再興」と書かれ、室町時代の1493年を示す年や、仏師弘円ほか関係者の名前がある(右腕内にも銘文があり、やはり仏師弘円の名と1517年の年が書かれている。長い時間をかけて修理が行われたのか、あるいは何らかの理由で追加の修理が必要となったためか)。
「再興」は修理と新造のどちらの場合も使われるが、銘文が書かれた面が改めて削られて書かれていることや、像の様式、構造から、修理の意味と解されている。では、造像年代はいつ頃なのかというと、像は後補の部分も多くなかなか判断が難しいが、修理時から1世紀くらいさかのぼった14世紀ごろと考えてよいのではないかと思われる。
なお、仏師の弘円は15~16世紀にかけて南関東の各地で活躍したこの時代の重要な仏師である。
光明寺本堂の本尊前立ち像について
本堂は内外陣を格子によって厳格に仕切る密教本堂の形式である。おみくじ(100円)、絵馬(500円)などが堂内で頒布されており、その購入のためであれば外陣まで入ることができ、格子越しに秘仏本尊(平安時代の作、60年ごとの開帳という)の厨子の前に立つ聖観音像(前立ち仏)を拝することができる。
前立ち仏の聖観音像は、像高80センチ余りの立像。寄木造、玉眼。
ほぼ直立し(わずかに腰を右にひねるか)、両手とも胴の前に出す。左手は蓮華をとり、右手はその上方に構える。体に比べて手は小さめな印象。
顔は大きめでほおを広く取る。
ややなで肩、胴体は少しずんぐりした印象で、下肢の衣はばさばさとさまざまに折り曲がりながら下がる。
像内に造立年を示す1498年の年が書かれている。また、台座には江戸時代後期の修理銘があり、小田原仏師の宮田新八の名がある。宮田新八は18世紀末ごろに現在の平塚市、大磯町のいくつかの寺で仏像の新造や修理を行なっていることが知られている。
さらに知りたい時は…
『平塚市史13下 別編 寺社2』、平塚市、2023年
「中世の相模金目郷と光明寺のこと」(『三浦古文化』39)、鈴木良一、1986年6月
「光明寺の諸像」(『三浦古文化』39)、三山進・薄井和男、1986年3月
『平塚市史1 資料編 古代・中世』、平塚市、1985年
「仏師弘円考」(『跡見女子学年大学紀要』1)、三山進、1968年3月
→ 仏像探訪記/神奈川県
