覚園寺の十二神将像
等身大の迫力ある守護神群像

住所
鎌倉市二階堂421
訪問日
2007年7月16日、 2022年5月20日
拝観までの道・拝観料
* 覚園寺薬師三尊像の項を参照してください。
お寺や仏像のいわれ
十二神将は薬師如来の守護神で、宮昆羅(くびら)大将、招杜羅(しょうとら)大将などの名前を持つ猛々しい神々である。12支を割り振って、子神将、丑神将、寅神将…とよばれることもあり、覚園寺薬師堂の十二神将像のように頭の上に小さな干支(えと)の像を載せて表現されることも多い。
この神将像12体のうち、午・未・申・酉・亥の像内に銘文があり、これらを総合すると、1401年から1411年にかけて毎年1体ずつ11体の神将像が造られたことが分かる(不思議なことに、戌神将についての記述だけはない)。
作者は朝祐という仏師で、彼については、1390年に川崎市の能満寺の虚空蔵菩薩立像を手がけたほかは、覚園寺の諸像(十二神将像、銘札のみ残り像は失われてしまった韋駄天像、薬師堂内の向かって左奥に安置されている小像である伽藍神像3躯、薬師三尊の脇侍像)を造立したという事績が知られるばかりである(南北朝時代から室町時代前期のこの時期、運朝、朝慶、朝栄、朝祐と、「朝」の字をもつ仏師が活躍したことが知られ、一連の系譜を引くものと思われる)。
朝祐は、その位牌および逆修(あらかじめ冥福を修めること)の五輪塔が覚園寺に残されており、それによると没年は1433年である。一般に鎌倉時代以後の仏像は生気を欠き、優品が少なくなるとされているが、朝祐はその中では高い技量を持ち、覚園寺の復興に腕を振るった仏師であった。
拝観の環境
十二神将像は薬師堂内の左右に6体ずつ安置され、近づいて拝観できる。
仏像の印象など
像高は約150センチ〜190センチとほぼ等身大で、ずらりとならんださまは迫力満点である。
その12躰すべてが異なった姿勢をとる。
子神将は兜を着け矢を取り、片目をつぶり、右目で矢羽根を調べている。
丑神将は目を見開き、口を閉じて、腰をひねりながら右手を振り上げる。
寅神将は大きく口を開けるとともに、ぐっと前屈みになって、手には戟を持つ。
卯神将は右手は斧を持ち、左手は額にあてて、遠望している姿である。
全部の像について書くことは省略するが、弓矢を持ち、髪をなびかせて風の中に立つ未神将、剣を構えて動きをはらみつつ、安定感がある戌神将像は殊に魅力的である。
全体的にはやや洗練されない顔つきではあるが、様々な姿の像が並ぶことで、群像としての魅力にあふれている。
ところで、上述したように戌神将のみ銘文中に記述がないのだが、他の像と同じく朝祐作と考えてよいという説と、この1躰のみ別作との説がある。
『神奈川県文化財図鑑 彫刻編』では、この1体については鎌倉後期までさかのぼれるのではないかとしている。一方、作風および像の構造から一連の朝祐の造像と考えられるという意見があり、こちらの説の方が有力である。
近くで拝観した感じでは、他の像はやや胴長な印象だが、戌神将は体躯に安定感があり、動きも自然で、若干作風が異なっているようにも思えた。この像のみ何らかの事情で早くに造られたという少数説に与したい気もするのだが。
なお、本像と姿やポーズが非常に似ていて、時代も近い十二神将像が鎌倉国宝館に所蔵されている。
その他
薬師堂内の向かって右奥に安置されている阿弥陀像は旧理智光寺本尊といわれ、通称鞘(さや)阿弥陀というが、それはこの像の中に胎内仏(失われている)がおさめられていたからであるという。自在な衣の表現はいかにも宋風であるが、全体的には安定感のある仏像である。
衣の一部につぶつぶがついているが、これは土紋の跡。土紋は土を型に入れて模様を作り、衣に貼付ける技法で、鎌倉地方の仏像にのみ見られる珍しい表現である。
一方、堂内向かって左奥に安置されている伽藍神(がらんじん)像3躰は、寺院の建物を守護する中国起源の神々である。見開いた目、中国風の服や冠が印象的な像で、薬師三尊の脇侍像や十二神将像と同じ仏師朝祐の作である。
さらに知りたい時は…
『薬師如来と十二神将』(特別展図録)、鎌倉国宝館、2010年
「室町時代、東国の造像」(至文堂『日本の美術』494)浅見龍介、2007年
『南北朝時代の彫刻』(至文堂『日本の美術』493)、山本勉、2007年
『覚園寺』(特別展図録)、鎌倉国宝館、2005年
「新指定の文化財」(『月刊文化財』501)、文化庁文化財保護部、2005年6月
「覚園寺薬師堂諸像の造立について」(『田邉三郎助彫刻史論集』)、中央公論美術出版、2001年
『神奈川県文化財図鑑 彫刻篇』、神奈川県教育委員会、1975年
