満願寺の菩薩立像、地蔵菩薩像
三浦一族ゆかりの仏像
住所
横須賀市岩戸1−4−9
訪問日
2010年6月5日、 2014年8月24日
この仏像の姿は(外部リンク)
拝観までの道
満願寺は、京浜急行北久里浜駅から南南西に徒歩約35分。
バスならば、北久里浜駅から団地循環かYRP野比行き京急バスに乗車し「岩戸」下車、西へ徒歩約5分。
同じ三浦氏ゆかりの寺である清雲寺へは、細い道を通って北西へ徒歩約20分で行ける。
拝観は事前連絡必要。
→ 京浜急行バス
拝観料
300円
お寺や仏像のいわれ
臨済宗の寺院。
江戸時代の地誌によると、満願寺は佐原十郎義連(よしつら)の開基といい、この寺に伝わる菩薩立像(伝・観音菩薩像)は、義連が平氏とのたたかいに出陣するにあたって自分をモデルに運慶に刻ませた像であると述べられている。
佐原義連は、源義経に従って西国で転戦し、特に一の谷鵯(ひよどり)越えでは、まっさきに断崖を馬で駆け下りたと『平家物語』にある。三浦義明の末子で、この地域を根拠地としていた。
菩薩立像ならびに地蔵菩薩像、不動明王・毘沙門天像はかつては本堂裏の観音堂に安置されていたが、これらを広く世に知らしめたのは久野健氏である。氏は横須賀市芦名の浄楽寺の運慶作の諸像を調査した後、三浦半島の古寺にはほかにも三浦氏ゆかりの鎌倉仏が伝わっているのではないかと考えて精力的に踏査を行った。結果、この満願寺の菩薩立像と地蔵菩薩立像が鎌倉前期の運慶様仏像であるとして見いだされた。
1972年、この2像は未指定からいきなり国の重要文化財に指定された。
拝観の環境
現在は、菩薩立像、地蔵菩薩像、不動明王像、毘沙門天像の4像は本堂向って右手の収蔵庫に安置されている。
収蔵庫内は明るく、間近でよく拝観できる。
仏像の印象
菩薩立像は像高220センチあまりの立像で、ヒノキの寄木造。玉眼。
その姿は、市内の浄楽寺に伝来する運慶作阿弥陀三尊像の脇侍像に近い。浄楽寺も三浦氏の一族・和田義盛が開いたお寺であり、このことから満願寺の像もまた慶派による鎌倉前期の仏像であるという推測が成り立つ。
サイズは浄楽寺の三尊像の脇侍よりもずっと大型で、もしもこの像もまた三尊像の脇侍であったとすれば、失われた中尊像は丈六仏であったと推測される(浄楽寺の中尊は半丈六像)。
丸く張りのある顔、威厳あるまなざし、堂々とした体躯、動きのある姿勢など、すばらしい像である。まげは高く結っている。
ただし、全体的な印象はやや大味で、衣の端の処理はやや単調さが感じられ、運慶その人の作ではなく、その周辺の仏師の手になる像と考えられている。
地蔵像も2メートルの像高をもつ。菩薩立像と同様、ヒノキの寄木造で玉眼。
全体の雰囲気や鼻筋や耳のような細部は菩薩立像にきわめて似る。慈悲深さというよりも厳粛な雰囲気が感じられ、力強い仏像と思う。姿勢は片足をわずかに前に出すもののほぼ直立する。
ここで思い出されるのが、伊豆・吉田寺の阿弥陀三尊像である(上原仏教美術館寄託)。同像はやはり鎌倉時代の慶派の作であるが、阿弥陀如来坐像の脇侍として観音・地蔵を配する。この満願寺の菩薩像、地蔵像もまた、もとは阿弥陀如来像の両脇侍であった可能性がある。
菩薩像、地蔵像ともに両手先の一部と両足先が後補であることを除けば、保存状態はたいへんよい。
その他
不動、毘沙門天像は若干小さく、やや表現は生硬で、鎌倉後期に補われた仏像と考えられている(菩薩像、地蔵像とは本来一具で制作されたものとの説もあり)。
さらに知りたい時は…
『運慶 鎌倉幕府と三浦一族』(展覧会図録)、横須賀美術館ほか、吉川弘文館、2022年
「特集 運慶と鎌倉殿の仏師たち」(『芸術新潮』871)、2022年7月
『運慶』(展覧会図録)、東京国立博物館ほか、2017年
『運慶と鎌倉仏像』、瀬谷貴之、平凡社、2014年
『関東の仏像』、副島弘道編、大正大学出版会、2012年
『東日本に分布する宗教彫像の基礎的調査研究』(『東国乃仏像』二)、有賀祥隆ほか、2010年
『よこすかの文化財』、横須賀市教育委員会、2007年
「満願寺蔵 菩薩立像・地蔵菩薩立像」(『国華』1287)、浅見龍介、2003年1月
『日曜関東古寺めぐり』、久野健ほか、新潮社、1993年
『地蔵菩薩像』(『日本の美術』239)、松島健、至文堂、1986年4月
『解説版 新指定重要文化財3、彫刻』、毎日新聞社、1981年
「ふたつの観音像」(『日本の美術』166、至文堂)、永井路子、1980年3月
『神奈川県文化財図鑑 彫刻篇』、神奈川県教育委員会、1975年