極楽寺の諸仏
転法輪殿に安置、春秋の土日などに開扉
住所
鎌倉市極楽寺3−6−7
訪問日
2008年1月13日、 2022年4月9日
拝観までの道
極楽寺は、鎌倉と藤沢を結ぶ私鉄、江の電の極楽寺駅で下車、徒歩3分。
ホームから寺の門が見えるくらい近いが、線路を挟んで駅改札と反対側にある。改札を出たら左へ、150メートルほど行くと線路を跨ぐ橋があるので渡ってすぐ左。
江戸末期の風情ある門からは一直線に本堂が見えるが、仏像は本堂に向って右の転法輪殿(宝物館)に安置されている。この宝物館は開く日が限られていて、4月25日から5月25日まで、10月25日から11月25日までの間の火・木・土・日・祝日のみである。また、開扉日であっても、雨天時は閉館とのこと。
拝観料
2022年のご本尊開扉時には700円だった(宝物館入館料として)
お寺のいわれ
極楽寺には前身となった念仏宗系の寺院があったといわれるが、判然としない。実質的には、西大寺流律宗の忍性(にんしょう)によって創始されたと考えてよいと思う。
忍性は叡尊(えいそん、えいぞん)の弟子である、叡尊は本来真言宗の僧だが、戒律を非常に重視し、奈良の西大寺を拠点に活動を行った。忍性は叡尊の法灯を受け継ぐとともに、社会事業、社会福祉を積極的に行い、民衆への布教につとめた。
鎌倉時代後期における鎌倉では、武家社会を祈祷によって守るための密教を中心としつつも、中国の禅僧が相次いで来日することで禅宗(臨済宗)も次第に力を伸ばし、さらに忍性の鎌倉下向をきっかけに西大寺流律宗もさかんに活動を行った。その後、わずか半年ほどの間ではあるが、師の叡尊が鎌倉入りし、北条氏をはじめ幕府のリーダーらに授戒を行ったことから忍性への幕府の信頼も高まり、極楽寺の地歩も固まった。
この時期、西大寺流の律宗は仏教界の勢力分布を塗り替える勢いで拡大したが、極楽寺は東国における一大拠点であった。忍性は後半生の大半をこの寺を中心に活動し、その墓は極楽寺の奥の院にある。高さ4メートルの五輪塔で、毎年4月8日に公開されている。
一時は大伽藍を構えていた極楽寺だが、室町時代以後は火災や震災もあって次第に衰退した。20世紀前半の関東大震災の影響も大きく、現在寺に残されている仏像も倒れた堂の下敷きになったため、大規模な修理を受けている。十大弟子像の着衣の部分など、注意深く見ると、修理のあとがわかる。
拝観の環境
宝物館の中は明るく、また近寄ってよく拝観できる。
仏像の印象(十大弟子像)
中央には、秘仏の釈迦如来立像の厨子が置かれ、その左右には十大弟子像が5体ずつ安置されている。さらに、向って一番右には釈迦如来坐像、一番左には不動明王坐像が並び、壮観である。
十大弟子像は、ヒノキの寄木造。秘仏の釈迦如来立像と一具の作と考えれられている。
関東大震災後の修復の際に2像より1268年の年を含む像内銘が見つかっている。忍性が極楽寺に住したのが前年の1267年とされており、これらの像は忍性の極楽寺における最初期の造像ということになる。
十大弟子とは、釈迦の10人の高弟である。釈迦の年下のいとこで最も長く釈迦の教えに接した阿難(あなん)、釈迦の死後教団の中心となった大迦葉(だいかしょう)、釈迦の出家前の子どもである羅睺羅(らごら)、般若心経では「舍利子」として登場する舍利弗(しゃりほつ)、餓鬼道に落ちた母を救ったという伝説の目犍連(もっけんれん)など。
像高はいずれも85センチ前後で、袈裟をまとって立つ像であるが、老若の表現や衣の着方などで少しずつ変化をつけている。顔つきはいずれも精悍であり、衣の襞(ひだ)の表現も深く表したり動きをはらんでいたりするが写実性は崩さず、いかにも鎌倉彫刻らしい。中には歯を見せているものもあって、これもこの時期の彫刻の写実を感じる。直立でなく片足を前に出す動きを表している像もあり、いかにも釈迦ともに歩んでいる徳の高き人々の感がある。
なお、震災の被害のために手首や足先が後補となっているものが多い。
仏像の印象(釈迦如来坐像と不動明王坐像)
向って一番右に安置されている釈迦如来坐像は、像高約90センチ、ヒノキの寄木造である。手は胸の前に構えているが、これは説法をしている姿であることを表す(説法印)。説法によって仏法が広がっていくことを法輪が回ることにたとえて、これを転法輪印ともよぶ。説法をする釈迦というのは当たり前の姿であるが、日本ではこの印相の釈迦像はなぜか少ない。
頬や手の甲に子どものように柔らかく肉がつく一方、腰は締まり、膝はしっかりと広がって、メリハリのある造形である。衣の襞(ひだ)は定型化せず、奔放に過ぎず、心地よいリズムを生み出している。
やや顔を大きめにつくり、肉髻は低め。螺髪は、一番下の段が下向きである。玉眼がすがすがしい。正面だけでなく、斜めから見ると、また印象が異なる。右肩にのせた衣が肘まできているのも特色である。
極楽寺にはかつて多宝塔があり、北条重時の13回忌である1273年に建立され、3尺の釈迦像が脇侍の文殊菩薩像、弥勒菩薩像とともに安置されたという記録がある。本像はその多宝塔本尊ではないかとする推測がある。
これとは別に、江戸時代後期の史料ではあるが、本像は1252年に仏師善慶によってつくられたと書かれたものがある。善慶は、奈良の西大寺の愛染明王像など比較的小さく精巧な仏像を作ることに優れていた仏師善円と関係の深い仏師とされていたが、2人の生年が同じであることがわかったことから、同一人物と考えらるようになった(善円が後半生に善慶と改名)。
向って一番左に安置されている不動明王像も、像高90センチあまりの坐像である。ヒノキの一木造。片方の目をつぼめ、口の両端には牙を片方は上、もう片方は下に出すなど、通例の不動明王の表情ながら、平安時代後期らしい穏やかさも感じられる。左右の持物(後補)を握る手は力強さがみなぎるが、脚部は薄くやや弱さを感じる。地方的な造像なのであろう。もと島根県の寺院に伝わったが、近代になって極楽寺に移されたことがわかっている。
その他(釈迦如来立像と文殊菩薩坐像について)
中央の厨子中に安置されている秘仏の釈迦如来立像は、鎌倉時代の清凉寺式釈迦像で、4月7日から9日までの3日間のみ開帳される。ただし、7日の午前と9日の午後には法要があるので、7日午後、8日、9日午前の実質2日間拝観可能ということである。*2023年からは7日、8日の両日になるとのこと。
この4月7日から9日にはまた、本堂も開扉され、堂上で拝観できる。特に、本尊・不動明王像の向って左に安置されている文殊菩薩像はすぐれた仏像なので、この期間に極楽寺を訪れることができたら、ぜひお見逃しなく。
像高約55センチの坐像で、玉眼。頭上に五髻を結う、いわゆる五髻文殊像。1273年に建立された極楽寺多宝塔に本尊釈迦如来像の脇侍として安置されていたと考えられている。
顔は卵形のように豊かな肉づきで、目はややつり上がりぎみで、口もとはしっかりと結ぶ。上半身は高く、姿勢がよい。左足をはずして座る。
正面からはやや遠いが、斜めからは比較的近い距離で拝観できた。
また、お堂の左右奥には、叡尊(興正菩薩)像、忍性像が安置されている。14世紀初頭、すなわち鎌倉時代後期の作。
叡尊像は、銘文から没後17年の1306年に西大寺の寿像を模してつくられたもの。ただし、火災にあい、頭部のみ当初で、体は室町期の補作。
さらに知りたい時は…
『奈良 西大寺展』(展覧会図録)、三井記念美術館ほか、2017年
『忍性菩薩』(展覧会図録)、神奈川県立金沢文庫、2016年
『忍性』(展覧会図録)、奈良国立博物館、2016年
『生身と霊験 宗教的意味を踏まえた仏像の基礎的調査研究』(『東国乃仏像』三)、有賀祥隆ほか、2014年
『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』10、中央公論美術出版、2014年
『釈迦追慕』(展覧会図録)、神奈川県立金沢文庫、2008年
『鎌倉 古寺を歩く』、松尾剛次、吉川弘文館、2005年
「文殊化現の場」(頼富本宏編『聖なるものの形と場』、法蔵館)、藤澤隆子、2004年
『極楽寺忍性ゆかりの遺宝』(展覧会図録)、鎌倉国宝館、2002年
『鎌倉地方の仏像』(『日本の美術』222)、田中義恭編、1984年
『鎌倉の文化財』13集、鎌倉市教育委員会、1983年
『神奈川県文化財図鑑 彫刻篇』、神奈川県教育委員会、1975年
「京都常楽院の十大弟子像と鎌倉地方の十大弟子像」(『金沢文庫研究』131)、猪川和子、1967年
『極楽寺』(美術文化シリーズ)、三山進、中央公論美術出版、1966年