金勝寺の平安仏
大迫力の軍荼利明王像、優美な釈迦如来像など
住所
栗東市荒張1394
訪問日
2007年10月6日
この仏像(軍荼利明王像)の姿(外部リンク)
拝観までの道
金勝寺(こんしょうじ)は琵琶湖の南、いわゆる湖南地方の山中にあり、タクシーを使うのでなければ相当な時間歩くことを覚悟しなければならない。
春季、秋季の土日祝日には「こんぜめぐりちゃんバス」がJR手原駅と金勝寺間で運行されている。
終点に近い「道の駅こんぜの里付近」という名前のバス停で下車し、少し戻ると道の駅があるが、その向かい側から斜めに入っていく坂道があるので、そこを登っていくと35分くらいで金勝寺に着く。
途中「ナンダサカ狛坂石段」というなかなかしゃれたネーミングの道への標識が出ているが、そこを通らずにまっすぐ車道を通る方が近い(石段を使うといったん谷へ下ってまた登らなくてはならない)。道は途中かなり急な登りのところもあるが、舗装されていて歩きやすい。
春秋の気候のよい時期の土日祝日はお堂を開けていることが多いそうだが、法事等のため拝観できない日もあるとのことなので、前もって連絡してから出かけるほうがよい。
降雪の季節は拝観できない。
拝観料
志納
お寺のいわれ
金勝寺はかつては金粛寺あるいは大菩提寺といい、奈良の東大寺を造営した僧良弁(ろうべん)の開創と伝える。
9世紀前半に興福寺の僧願安が伽藍を建立し、やがて定額寺(じょうがくじ、準官寺として扱われた寺院)に列せられたことが平安時代前期の史料から知られる。
鎌倉期の絵図によれば多くの堂塔が軒を並べていたが、今は本堂(旧講堂)と二月堂、そして新しい虚空蔵堂が建ち、平安時代の諸仏像を伝えている。
拝観の環境
それぞれの仏像は近くに寄ることができ、とてもよく拝観できる。
仏像の印象
門を入って右側の二月堂に軍荼利(ぐんだり)明王立像が安置されている。像高は実に4メートル近く、狭い堂の中にそびえ立つようである(膝下は後補、本来はさらに高かった可能性もある)。
軍荼利明王は不動明王を中心とする五大明王のうち南方に配される仏であり、このように独尊としてまつられることは少ない。針葉樹材による一木造。量感溢れる造形であり、裳や天衣(てんね)には渦巻きが刻まれるなど平安前期彫刻の特色を表す。9世紀末ごろの彫刻と思われる。
目は大きく見開き、歯を剥き出す。8本の手のうち前の2本は胸で交差する。左右にややぎこちなく開く天衣は当初のものという。大きく造られた上半身と開いた天衣とで、よくバランスをとる。
誇張に走らず、しかし迫力がある。また、破綻なくまとめられているが、それは定型化した安定感とは別のものである。平安木彫の魅力あふれる仏像である。
本堂本尊は平安時代後期の釈迦如来坐像である。
像高は約220センチで、丈六像としては少々小ぶりだが、堂々としている。定朝様式の仏像である。
お堂は緑に包まれていて、外の光によって微妙な表情が出、いつまでも拝観していたいように感じる。
虚空蔵堂に安置されている虚空蔵菩薩像は、2メートル近い大きさをもつ。
顔の下塗りがまだらになって残っているためか顔のつくりは分かりにくいが、穏やかな表情であり、衣文の彫りも浅く、平安時代後期の像と思われる。しかし、よく見ると翻波(ほんぱ)式衣紋の名残が見られる。この時代には珍しい半跏踏み下げの像であるが、これは求聞(ぐもんじ)法虚空蔵の図像をもとにしたものという。割りはぎ造。
本堂本尊とは様式や技法が異なるものの、その脇侍であった可能性もある。
虚空蔵堂にはこのほか、やはり平安時代前期の特色をよく残した毘沙門天立像が安置されている。
その他
金勝寺から狛坂磨崖仏へ行く道がある。→ 狛坂磨崖仏のページをご参照ください。
もっと知りたい時は…
「金勝寺蔵 木造軍荼利明王立像」(『国華』1407)、佐々木進、2013年1月
「近江・栗東の仏像」(『近畿文化』671)、紺野敏文、2005年10月
『地方仏を歩く』、丸山尚一、日本放送出版協会、2004年
「平安彫刻の成立」(『日本彫刻史の視座』)、紺野敏文、中央公論美術出版、2004年
『金勝寺ー良弁説話と二十五別院』(展覧会図録)、栗東歴史民俗博物館、1995年
『仏像を旅するー東海道線』、清水真澄編、至文堂、1990年
『近江の仏像』(『日本の美術』224)、西川杏太郎編、至文堂、1985年
『解説版 新指定重要文化財3、彫刻』、毎日新聞社、1981年
『近江路の彫像』、宇野茂樹、雄山閣出版、1974年