観音寺の伝教大師像
毎年8月11日に開扉
住所
滋賀県米原市朝日1342
訪問日
2018年8月11日
拝観までの道
観音寺は北陸線の長浜駅から東へ7キロくらい。なだらかな丘陵地帯をトンネル(観音坂トンネル)で越えて米原市に入るとすぐの場所にある。なお、この地区は2005年に合併によって米原市となる以前は山東町といった。
長浜駅と東海道線の近江長岡駅を結ぶ湖北バス「観音寺」下車。北へ徒歩5分。
観音寺に伝わる伝教大師像は、本堂内安置。本堂は年1度の開扉で、かつては8月10日だったが、近年は山の日として祝日に定められた8月11日に開扉する。午前中法要を行い、その前後に安置仏像を拝観できるらしい。
ただし、筆者が拝観にうかがった2018年については、本堂でなく隣にある薬師堂で法要がおこなわれた。薬師堂は本堂と同じく近世の仏堂で、この度修復が完了し落慶法要が執り行われるはこびとなったということで、その間、本堂も開けていて拝観できると事前にうかがっていた。
午前10時前後にお詣りさせていただいたところ、ちょうどご法要がはじまったところで、本堂で伝教大師像を拝観させていただくことができた。
拝観料
志納
お寺や仏像のいわれなど
観音寺は、はじめ法相宗であったが、のちに天台宗となったと伝える。本尊は秘仏の千手観音像。
この地の地頭であった大原氏の庇護を得て栄えた寺ので、大原観音寺とも呼ばれる。
石田三成が小僧であったときに豊臣秀吉に見いだされたという有名な逸話があるが、その舞台となったのはこのお寺とのこと。
東方に霊山として名高い伊吹山がそびえる。9世紀までにその山中に伊吹山護国寺がつくられ、その後4か寺にわかれて発展したという。観音寺はその4つの護国寺のうちの観音護国寺の後身であると伝える。
本堂に安置される伝教大師像の銘文に「長尾寺」の文言があるが、これも4護国寺のうちの1つ(長尾護国寺)。伝教大師像はかつて長尾寺にまつられるためにつくられ、観音寺に移されて今に伝わったことがわかる。
拝観の環境
ライトもあり、堂内でよく拝観できた。
仏像の印象
伝教大師とは、日本の天台宗の宗祖である最澄のことである。
最澄は822年に亡くなるが、その前後に肖像がつくられて比叡山内に安置されたらしい。この像は伝わらず、平安時代を通じて画像はいくつかつくられているものの、彫刻の例は少ない。鎌倉時代作の本像が最古の最澄像である。
画像がそうであるように、頭巾をつけ、座っている姿である。
ヒノキの一木造で、素地をあわらしている。後頭部、背中、底面からくりを入れている。
像高は約65センチなので、等身大よりも小さい。
全体的には素朴な印象であり、頭と胴の正中がずれ、彫りも浅い。現在では伝わらない古像があって、その復刻の像としてつくられたのかもしれない。
目は細めにして、眉を上げ、表情はややきびしい。衣を重ねて来ているのは、比叡山の厳しい気候ゆえか。上半身、肩を外して着けている布はストールであろうか。
首元には頭巾の結び目があり、立体的に華やかにつくられているが、それ以外の胸や腹のつくりは平板に見える。
ひざはあまり左右には張らないが、膝頭をやや高くつくっている。
像内の胸から腹にかけて書かれた銘文には1224年を示す年が書かれているが、仏師名はわからない。文章の下方が切れてしまっていて、全文がわからないためで、残念である。
また、本像のことを「大師」とのみ記述しており、伝えのとおり伝教大師像と考えてよいと思うが、中国の天台大師の像である可能性も残されている(そもそも伝教大師の像は天台大師像をモデルにしていると考えられているので、峻別が難しい)。
さらに知りたい時は…
『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』3、中央公論美術出版、2005年
『最澄と天台の国宝』(展覧会図録)、東京国立博物館ほか、2005年
「伝教大師最澄の肖像」(『仏教芸術』261)、齋藤望、2002年3月
『山東町の仏像』 『(山東町文化財資料集』1)、山東町教育委員会、1993年