求法寺の元三大師像
1月3日と9月2日に開扉
住所
大津市坂本5-2-33
訪問日
2007年9月2日
拝観までの道
求法寺(ぐほうじ)へは京阪石阪線の終点坂本駅下車、西(ケーブル坂本駅方面)へ徒歩約10分。旧竹林院の先、日吉大社西受付のすぐ脇である。
本尊の元三大師像は、普段は厨子中に秘するが、命日の1月3日と誕生会(え)の9月2日に開扉される。
事前に問い合わせたところ、開扉は14時30分からの法要でというお話だったので、その少し前の時間に到着すると、信者の皆さんはすでにお集りで、厨子の扉も開かれていた。やがて読経、護摩焚き、縁起奉読が1時間くらいあり、その後ご本尊の前まで進んでの拝観が許された。
拝観料
拝観料の設定は特になかった。
お寺や仏像のいわれなど
9世紀初頭に最澄によって開かれた比叡山延暦寺は、その後継者の代に順調に発展するが、10世紀に入って度重なる火災などで危機を迎える。
その時、中心となって延暦寺を復興した僧が良源(りょうげん)である。彼は、奈良時代の行基以来の大僧正に任ぜられ、死後慈恵(じえ)大師とおくり名された。やがて、弘法大師空海のように彼自身が信仰の対象となり、厄よけの大師、如意輪観音の化身と信じられた。おみくじの創始者ともいわれる。正月三日に亡くなったので、元三(がんざん)大師と呼ばれることが多い。
良源は東近江出身という。若き良源が比叡山にのぼる際、ふもとの地において修行の決意を固めたその場所を寺院としたのが求法寺のはじまりである。
信長の兵火によって焼け、現在は江戸時代に再建された元三大師堂(走井大師堂)があるばかりの小さな寺となっている。
本尊は元三大師自刻と寺では伝えるが、実際は鎌倉時代に造られた大師像である。
拝観の環境
すぐ前で拝観できるが、厨子中に安置されているので、正面からのみの拝観となる。
仏像の印象
元三大師像は高さ80センチほどの等身大の坐像である。ヒノキの寄木造、玉眼。
いかにも鎌倉時代の彫刻らしい精悍な顔つきで大師の姿を表現している。手は胸の前で数珠を持つが、ポーズが自然である。膝の前や両腕の衣の襞(ひだ)の表現は自然な中にやや賑やかがある。衣には金色が残る。
同時期につくられた元三大師像と比較すると、他の像ではさらに容貌の魁偉さを強調したり、衣の襞も深く強く刻んでいるものが多いが、それに対して本像には落ち着きと威厳が感じられる。しかし、顔つきをよく見ると、非常に厳しい。太い眉を上げ、まなじりを上げた眼は強く見開く。鼻は大きくあらわし、口はきつく閉じる。誇張を排しながら、これだけの迫力を伝える像はそうないのではないか。
像内は漆で丁寧に仕上げているそうだ。おそらく納入品があったのだろうが、失われている。ただし、頭部には18センチの大きさの銅造の観音像が納められている。元三大師を観音の化身とする信仰によるものであろう。観音像の納入といい体の金色相といい、きわめて厚く信仰に裏打ちされた大師像であるといえる。
像底の板に銘があり、鎌倉中期の1267年に仏師院農によって造られたことが分かっている。院農は、名前から院派仏師と思われるが、この像の作者であること以外は不詳である。
その他
元三大師像(慈恵大師良源像)は各地の寺院に伝えられているが、造像年の分かっているものでは鎌倉中期のものが多い。このころ元三大師への信仰が高まったのは、元寇という脅威に対するためもあったようだ。
さらに知りたい時は…
『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』10、中央公論美術出版、2014年
「慈恵大師(良源)像基礎資料集成2」(『大津市歴史博物館研究紀要』17)、寺島典人、2010年
『元三大師良源』(展覧会図録)、大津市歴史博物館、2010年
「調伏のかたちとしての元三大師像」(『研究発表と座談会 予言と調伏のかたち』)、淺湫毅、2010年