延暦寺横川中堂の聖観音像
天台系観音像の根本像
住所
大津市坂本本町
訪問日
2010年11月28日
延暦寺へ
延暦寺は比叡山上の山岳寺院。8世紀末に最澄によってひらかれた天台宗の本山で、その寺域は広大である。
京都の北東にそびえる比叡山は、 今は道路やケーブルカーが整備され、不便な場所ではなくなったが、 標高は800メートル台ながら平地から直接立ち上がっていて非常に急峻である。
京都駅や三条からバスが出ている。または、出町柳駅から叡山電鉄で八瀬比叡山口へ、そこからケーブルカー、ロープウェイを乗り継いでゆく。また、東麓の坂本からケーブルカーもある。
山内の移動はシャトルバスが便利。ただし平日は本数が少なく、また、冬季は運休となる。
拝観料
550円(三塔共通券)
三塔とその本尊
比叡山には3つの主要部がある。東塔(とうどう)は延暦寺全体の本堂ともいうべき根本中堂を中心とする。ここは、最澄によって最初の堂宇が設けられた場所である。
東塔から北へ徒歩20分ほどのところにある西塔(さいとう)、西塔から北へ約4キロのところにある横川(よかわ)をあわせて三塔と称する。このほか谷間に点在する子院や堂、また山麓の坂本にも子院がある。
東塔の根本中堂は信長による焼き討ちののち、江戸時代に再建された巨大なお堂で、本尊は最澄自刻の薬師如来像というが、秘仏。
西塔の中心は釈迦堂(転法輪堂)で、信長の焼き打ち後に秀吉の命により移されて来たお堂である。もと三井寺(園城寺)の金堂(弥勒堂)で、山内で最も古い南北朝時代のお堂。本尊は清凉寺式の釈迦如来像だが、こちらも秘仏。
横川の中心、横川中堂は江戸初期再建の建物が20世紀半ばに落雷によって炎上し、戦後に再建された。本尊は聖観音像で、この像は拝観可能である。
横川中堂の聖観音像について
像高は170センチほどの立像で、材はカヤという。寄木造。穏やかで優しい顔つき、低いまげ、彫りの浅い衣文は平安時代後・末期の作風である。
左手は閉じた蓮華(後補)を持ち、右手をそれに近づける。これは天台系の観音像によく見られる姿で、おそらくこの像の姿が根本像とされて流布していったのであろう。たとえば鞍馬寺の聖観音像(肥後定慶作)は全体の印象はかなり異なるものの、姿は同様で、この像の流れを汲むものと思われる。
ゆったりと体を曲げた姿勢は優美さが感じられる一方で、上半身や腰はしっかりとした存在感がある。
中世成立の延暦寺の堂塔の記録である『山門堂舍記』によれば、1169年に横川中堂は焼け、しかし像は無事だったとある。このことから、この像はこの火災前の作とも思われる。
外陣からの拝観で、やや距離がある。厨子にはガラスが取り付けられ、明かりが照らすものの、ガラスの曇りのためか、肉眼では残念ながら細部はわからない。
その他
20世紀半ばに落雷によってお堂が焼けた際、この像は助け出されたが、脇侍像は焼失してしまった。
この像の脇侍は不動尊、毘沙門天で、伝えによれば円仁が唐より帰朝する折りに嵐にあい、観音を念じたところ、毘沙門天が現れ、たちまち風雨がおさまった。比叡山に戻った円仁は一堂を建立し、観音と毘沙門天をまつり、その後良源がこれに不動を加えて三尊としたのという。
天台系にはこうした観音を中尊として不動、毘沙門を脇侍とする三尊形式がしばしば見られるが、その嚆矢となったのがこの横川の三尊であったようだ。
ただし、焼失した脇侍像はそれぞれ別作で、聖観音像よりあとの時代のものであったらしい。
さらに知りたい時は…
『最澄と天台宗のすべて』(展覧会図録)、東京国立博物館ほか、2021年
『日本美術全集』4、小学館、2014年
『院政期の仏像』、京都国立博物館、岩波書店、1992年
「横川中堂の聖観音像」(『日本美術工芸』423)、井上正、1973年12月