常信寺の釈迦三尊像
院政期を代表する美しい仏、菩薩像
住所
大津市大石富川1-9-7
訪問日
2013年10月26日
拝観までの道
常信寺のある大津市大石富川は市の南の端であり、すぐ西南は京都府、東南は甲賀市と接する。
交通は不便で、日中のバス便はない。
JR石山駅前から大石小学校前行きの京阪バスに乗車し、「鹿跳橋(ししとびばし)」または終点の「大石小学校」下車、国道422号ぞいに東へ約3キロ半(徒歩約1時間)。
この道は瀬田川支流の信楽川の南側を進む。「矢筈石倉」のバス停(平日の朝夕のみ通る甲賀市のコミュニティバス)を過ぎて、春日橋という小さな橋で信楽川を渡り、その100メートルほど先を左手に入るとまもなく常信寺の収蔵庫が見えてくる。
標識等ないので、地図は必携である。
拝観は地元で管理をされている方に連絡をとりお願いする。
拝観料
志納料として1人300円以上
お寺や仏像のいわれなど
常信寺は、今は収蔵庫だけとなってしまったお寺であるが、平安時代後・末期時代の美しい釈迦三尊像が伝わっている。
像内にも漆箔が及んでいるという実に入念なつくりの像で、並々ならぬ由緒をもって造像されたものと思われる。
常信寺のすぐ東隣は春日神社(社伝によれば12世紀なかばの創建といい、現在の社殿は鎌倉時代末期の再建)であり、常信寺とともに興福寺や摂関家と関係が深かった、またこのあたりに摂関家の荘園があった等伝えらる。
本像も摂関家関係の仏像であったのであろうか。
拝観の環境
庫内は明るく、近くよりよく拝観させていただけた。
仏像の印象
釈迦如来坐像を中尊に、脇侍は象に乗った普賢菩薩と獅子に乗った文殊菩薩が従う三尊像である。この組み合わせは経典にもあるものだが、日本では古くはこうした三尊はつくられず、12世紀になって登場してくる(それ以前にもあったのかもしれないが、彫刻の違例として確実なものは11世紀以前にはない)。
本像のほかには、兵庫・鶴林寺の像(宝物館安置)、長野・牛伏寺の像、京都・醍醐寺に伝わる像が12世紀の作とみられる。中でも常信寺の三尊はもっとも姿が整い、優美な像である。
三尊ともヒノキの一材を用いてつくられている。脇侍は割矧(わりは)ぎ造。中尊は後頭部と背板は別材。ともに頭と体は一度割り離す。
中尊の釈迦如来像は像高約90センチ、脇侍像は約60センチ。
基本的には定朝様式の仏像で、肉髻は大きく、螺髪の粒は小さく、美しく整えられている。顔は円満で、上半身は大きく、頭、体、脚部のバランスがよい。衣の襞(ひだ)も美しく流れる。
ただ、目は若干つり上がり気味で、顔の輪郭は丸顔からやや引き締まり加減であり、脚部の襞もやや深めに刻まれている。平安末期の作だが、次代の鎌倉彫刻の萌芽が見えるということであろうか。
組んだ足にも写実性がうかがえる。
脇侍の菩薩像も顔つきはきりりとして、手の構えや胴の絞った様子もすばらしい。
獅子座、象座も優品である。顔を左に振り、右前足を半歩前に出す獅子の動き、また目を細め、耳を垂れてかわいらしい象はともに印象深い。
その他(富川磨崖仏について)
常信寺の西、信楽川の北側に、薄肉彫で岩に刻まれた仏の像(史跡・阿弥陀三尊不動明王磨崖仏)があり、富川磨崖仏と呼ばれている。
常信寺から国道422号を15分くらい西へと戻ると、「岩屋耳不動尊」という石柱が立っているので、そこを北へ。岩屋不動尊橋と名づけられた橋を渡った先に磨崖仏拝観への登り口があり、手製の杖が束になって置かれている。そこから数分間ではあるが、なかなか厳しい上り坂を行く。息が上がってきた頃に、大岩に刻まれた阿弥陀三尊像、不動明王像が現れる。
ここは岩屋山明王院(富川寺とも)というお寺のあとという。本尊は釈迦石仏であったといい、また石積みも残っているというが、詳しい寺史などは不詳。
中尊の阿弥陀如来坐像は3メートル半以上の像高をもつ大きな像で、幸い風化があまり進んでいず、輪郭がよくわかる。闊達で装飾的な衣の線が特徴的である。俗に「耳だれ不動」とも称するのは、岩をつたって垂れてくる水で耳のあたりから下が変色していることで、耳の病に霊験あらたかであるとされたことによるらしい。
近くの岩に1369年(南北朝時代)を示す年が刻まれていて、それが直ちにこの磨崖仏の造立の年をさすのかはわからないが、おおよそその頃に彫られた像と考えてよいようである。
さらに知りたい時は…
「大津南部の古寺と仏像 」(『近畿文化』664)、関根俊一、2005年3月
『文殊菩薩像』(『日本の美術』314)、金子啓明、至文堂、1992年7月
『普賢菩薩像』(『日本の美術』310)、山本勉、至文堂、1992年3月
『解説版 新指定重要文化財』3、毎日新聞社、1981年