輪王寺常行堂の阿弥陀五尊像
孔雀に乗る阿弥陀さまと4躰の脇侍
住所
日光市山内2300
訪問日
2008年5月31日
拝観までの道
輪王寺常行堂へは、JR日光駅または東武日光駅から東武バス「世界遺産めぐり」に乗車し、「大猷院二荒山神社前」で下車、すぐ。バスの本数は日中1時間3本程度。
→ 東武バス
拝観料
志納(三仏堂や宝物殿は入場料があるが、常行堂だけであれば特に拝観料の設定はない)
お寺や仏像のいわれ
世界遺産・日光は、東照宮、二荒山神社、輪王寺の二社一寺と、その周辺の遺跡群よりなる。
このうち東照宮は近世からだが、輪王寺と二荒山神社(近代初期の神仏分離で分けられたが、それ以前は一体のものであった)は奈良時代からの山岳信仰によって創建された古代以来の寺社である。
平安時代には、天台・真言の密教が本格的に流入するとともに本地垂迹説に基づく信仰も盛んになった。
輪王寺の金堂は三仏堂(現在のものは近世の再建)と称されるが、その本尊、阿弥陀、千手、馬頭の尊像が男体山など日光の霊峰3山の神の本地仏としてまつられている。
一方、平安時代前期に、最澄の後継者のひとり、円仁が来山したという伝えがある。円仁は下野国出身であり、そのころすでに聖地日光は広く知られていたのでありえないことではないと思うが、実際に円仁が日光に来たかどうかは不詳である。ただ、天台宗の影響がそのころより高まっていったことは確かで、比叡山にならって常行堂と法華堂が建てられた。また、鎌倉時代には幕府に厚く保護され、比叡山に次ぐ寺格を誇ったという。
その常行堂だが、12世紀半ばの創建とも、円仁によって創建され12世紀半ばに再建されたものとも伝えるが、いずれにしてもその後に場所を移して再建されている。しかし、法華堂・常行堂の2堂が同サイズで並び立つ形式を守っていること、常行堂本来の本尊である阿弥陀五尊像をまつっているのは伝統を忠実に引き継いでいるものと考えられ、大変貴重な遺産といえる。
拝観の環境
お堂の中に上がることができるが、内陣には入れないため、仏像までやや距離がある。堂内には照明もあるが、やや暗い。一眼鏡のようなものがあるとよいかもしれない。側面からも拝観できる。
仏像の印象
本像は、中尊は平安時代までさかのぼれる宝冠阿弥陀像として貴重なだけでなく、五尊が揃ったきわめて重要な遺例である(他に阿弥陀五尊像で今日まで伝来しているものとしては、岩手の毛越寺像があるが、近世の作である)。
中尊の阿弥陀如来像は、像高70センチ弱の坐像で、ヒノキ材。
天台宗の常行三昧という修法の本尊として一般的な阿弥陀像の姿とは異なる姿、すなわちまげを結い、宝冠をかぶり、通肩という両肩をすっかり覆った衣がぴったりと肌についているような姿で表されている。
平安後期らしい落ち着いた造形であり、12世紀半ばの常行堂の創建当初(あるいは再建時)からの像と思われる。顔は丸顔で穏やか、腕はすらりと伸びるようでなくやや短くつくられ、膝の張りは控えめで、あまり襞(ひだ)も刻まない。宝冠(後補)で隠れているが、まげは大きい。
像内に鎌倉から江戸にかけて4回修理を受けた記録が残っているそうだ。
4体の脇侍菩薩は像高30センチ弱の小さな坐像である。いずれもヒノキ材の割矧ぎ造。
ただし、2体は中尊と同時代と考えられなくもないが、やや引き締まった印象からおそらく鎌倉時代、他の2体は室町時代の作と考えられている。罹災の度ごとに補われてきたものであろうか。小像ながら厚みのある体躯をもった堂々たる像である。
なお、中尊、脇侍とも鳥獣座(クジャク)に乗っているが、後補。また、仕上げの漆箔も後補である。
その他
日光という地名の由来にはいくつか説があるが、有力な説に観音の浄土、補陀落(ふだらく)山から来ているというものがある。すなわち、補陀落が二荒(ふたら)となり、これが音読みされて日光の字が当てられたという。
さらに知りたい時は…
「常行堂宝冠阿弥陀像の典拠図像と造像背景」(『密教図像』31)、古幡昇子、2012年
『日光 その歴史と宗教』、菅原信海・田邉三郎助 編、春秋社、2011年
「木造阿弥陀如来及四菩薩坐像」(『国華』1367)、奥健夫、2009年9月
『山岳信仰の美術 日光』(『日本の美術』467)、関根俊一、至文堂、2005年4月
「新指定の文化財」(『月刊文化財』441)、文化庁文化財保護部、2000年
『阿弥陀如来像』(『日本の美術』241)、光森正士、至文堂、1986年6月
『輪王寺』(『古寺巡礼 東国2』)、山本健吉・菅原信海、淡交社、1981年