東京国立博物館法隆寺宝物館の菩薩半跏像

  7世紀の在銘金銅仏の代表作

 

住所

台東区上野公園13-9

 

 

訪問日

2008年1月3日、 2022年8月15日

 

 

この仏像の姿(外部リンク)

東京国立博物館・名品ギャラリー

 

 

東京国立博物館までの道

東京国立博物館は、JR上野駅公園口から徒歩約10分。法隆寺宝物館は、入口から正面の本館の方へ行かずに、左へ。

休館日は原則月曜日と年末年始。

 

 

入館料

総合文化展(平常展)は一般1,000円

 

 

法隆寺宝物館の金銅仏について(由来と思い出話)

日本最大の美術博物館である東京国立博物館には、本館、東洋館などいくつかの展示館が並ぶが、中に法隆寺宝物館という不思議な名前の建物がある。

法隆寺とはもちろんあの奈良の有名な寺のことである。

なぜ東京の博物館に法隆寺宝物館なのか。法隆寺は近代の初期、300件あまりの宝物を皇室に献納し、その見返りとしての援助によって厳しい時代を乗り切った。そしてこの時寺を離れた宝物の保存と展示のために設けられた施設が、東京国立博物館の法隆寺宝物館なのである。その中には奈良時代以前の貴重な遺品も多く含まれ、大陸の香りのするものも多い。

仏像は、7世紀の金銅仏を中心に50点以上が納められている。

法隆寺→皇室という由来をもつ文化財であり、保存上神経を使わなければならないものも多く、ゆえにその管理も厳重で、かつては公開は木曜日のみ、しかも雨天時は開館しなかった。今は現代的な建物(設計は谷口吉生、1999年竣工)に建て替えられ、博物館の開館日であればいつでも見ることができる。

 

筆者がこの館をはじめて訪れたのは、高校生の頃だった。当時はまだ木曜日のみの公開であったので、学校の長期休業期間だったと記憶する。切符売り場に「今日は法隆寺宝物館は開館しています」という札が下がっていて、うきうきしたことを思い出す。

ところが、その期待の大きさに反し、実際に展示室に入ると戸惑いを覚えた。当時すでにいっぱし仏像に詳しいつもりでいたのだが、意外にもどう見ていいか分からなかったのである。同じような大きさの小金銅仏がずらりと並び、ひとつ見て次、また次と見ていくうちに印象は混ざり、次第にどれがどれか分からなくなって、最後にはもう頭が働かなくなっていた。

仏像は見たことがあるが、どれも同じに見える、よくわからないという人がいる。そういう話を聞くたびに、この時金銅仏の前で立ち往生した体験を思い出す。仏像がよくわからないという人も、この時の私と同じくどう見たらよいのかのとっかかりがうまく持てず、困っているのかもしれないと思う。

 

筆者が法隆寺宝物館の仏像を興味深く思えるようになったのは、それからずいぶん時間がたってからである。1躰の仏像に強く引きつけられ、その仏像をひたすら見たことがきっかけで、ほかの仏像の魅力も次第に頭に入ってくるようになった。

その仏像が、ここで紹介する丙寅(へいいん)銘菩薩半跏像である。

 

 

展示の環境

法隆寺宝物館の中は暗く、入ると仏像が一躰ずつ別々のケースに納められて、整然と並んでいる。保存のための細心の注意と、効果的な照明を兼ね備えた展示なのだろうと思うが、やや異様な光景と思わないでもない。

丙寅銘菩薩半跏像は部屋の一番右奥、別の半跏像と2体でひとつのケースに常設展示されている。近い距離で、また背面や右(向かって左)側面からも見ることができる。

照明によって光の届かない部分はあるが、2015年〜16年にかけて館内整備のための一時休館期間があり、その後の印象では正面の銘文など見えやすくなったように思う。

 

 

仏像の印象

7世紀につくられた金銅仏である。

全高は40センチ強、台座上からだと30センチに満たない小さな半跏像だが、その存在感ゆえに大きく見える。鍍金(ときん、金メッキ)は落ちて、ほぼ真っ黒に見える。

 

まず印象的なのは、異様なプロポーションである。顔は大きく、それ以上に脚部はどっしりと大きいが、腕は細長く、胴は極めて細い。この像を立たせてみたいと思う。たぶんかなり不思議な姿であろう。

横から見ると首が前傾し、スリムな体は弧を描いている。その分頭が下がり、また台座の前部と右足膝がわずかだが高くなっていて、思惟の形をつくる右腕は、極めて自然にひじが足に、指先がほおに触れる。正面観はみごとに辻褄があっている。だが、理想的なプロポーションで表現する奈良時代の彫刻から考えれば、それよりも以前の造形であることは間違いない。

 

この時代の金銅仏は、蜜ろうで原形を作り、その中と外を土で固めて(正確には、中型の上に蜜ろうで原形を作って、そこに外型をかぶせる)、熱するとろうが流れ出、その隙間に熱した銅を流し込むという方法でつくられる。その蜜ろうの原型の滑らかさが全体に感じられる。特に肩や背中のラインは美しい。左腕はやや荒れているが、全体に仕上がりがよく、アイソトープ透視という科学的手法による分析でも鋳上がりがよいことが確かめられている。

 

細部に目をやると、顔は額が広く、中央が膨らんでウルトラマンを思わせる目、張った頬骨は印象的である。線が描かれた頭髪の模様(背面から見える)は面白い。胸と背中に下がる飾りは可愛らしい。腕の飾りは不思議な形である。何かの模様が変形したのだろうか。腰の裳の上部がラインが綺麗な波形となっている。そこから前方に垂れる紐は、右足の下をくぐらずに、足の上から前に下がる。朝鮮三国時代の菩薩半跏像ではこの紐は足の下に巻き込むものが多いように思うが、大陸の像をモデルとしたが写し損ねたということだろうか。腰の左右から下がる紐の先についた四角い金具の飾りも垢抜けない。これも朝鮮の様式ではやったものを変形して写したのかもしれない。

 

冠は前と左右に分かれた、三面頭飾である。この冠の形は、3つに分かれていない山形の冠(この像の隣の半跏像はこの冠をかぶっている)より新しい形であるとされる。冠の前面には線で模様が入り、中央部に小さく空白があるが、これは気になる。本来ここに何かが描かれるはずだったのでは、と想像をめぐらしたくなる。足の下の蓮弁はやや複雑な形で、これもやや新しい形なのかなとも思う。背面の腰の裳が花のように広がっているさまも新しい要素であるように思える。ここはあまり光が届かず、見にくいのだが。

 

以上のことから、この像は、奈良時代の彫刻のような理想的なプロポーションにはかなり遠く、全体的には古様である一方で、細部には新しい様式も散見される。そうした古さと新しさのミックスに加えて、独特な表現、さらに崩れた写しの要素が見られるように思える。

ただし、この新しい/古いについては注意が必要で、8世紀になると遣唐使によって唐の新様式が直に持ち込まれるようになるが、それ以前については、必ずしも古い様式の仏像が古いとは限らない。多様性こそがこの時代の仏像の特色なのである。

 

 

銘文について

方形の台座の下の框(かまち)と呼ばれる部分に、正面から右側(向かって左側)にかけ、像を横に寝かせて縦に書いたという状態の銘文がある。正面に14文字、右に20文字である。

銘文には、丙寅という年に、高屋大夫(まえつきみ)が、分かれた韓婦夫人・阿麻古(あまこ)のために祈ってつくったものである、と書かれている。綺麗な字ではないかもしれないが、味のある文字である。

韓婦は単純に考えて朝鮮半島にルーツをもつ妻という意味(そのわりに阿麻古という名は倭風っぽいが)、分かれたとは、この時代の仏像の銘文が家族の冥福を祈るという形式であることから、死別と考えていいと思う(分かれたの「分」、ためにの「為」を別の解釈で読む説もあり)。

高屋氏は、8世紀の史料に下級貴族や僧侶として登場する氏族である。出身地は河内(現在の大阪府東部)のようだ。

 

この銘文の中で最大の問題は、「大夫」である。これは律令以前にあった地位で、天皇の言葉を取りつぐなど極めて重要な位であり、高屋氏とは釣り合わない。そして、「丙寅」という干支が何年をさすのかという問題。干支は60年に一度回ってくるため、丙寅は606年または666年と考えられているが、この仏像の様式や銘文の「大夫」をどう考えるか等によって説が分かれている。666年説が有力である。

 

 

仏像の銘文の重要性

金銅仏の銘文は、台座または光背裏に刻まれる。数十字程度のものが多く、そこから分かることは少ない。また、わずかな文字の中にさまざまに解釈が分かれる言葉が入っていて、正確に理解することが難しい場合が多い。

しかし、銘文は同時代史料なのである。あとになって記述された文章でなく、仏像が出来るのとほぼ同時に刻まれるので(追刻されるということもあり得ないことではないが)、誰が何を考えてつくったものか、仏教をどのように受容して造像という行為をしたのかを知る貴重な手がかりとなる。

この時代の金銅仏の銘文からは、家族の死後の冥福を祈るというものが多い。また、仏教の救いについて具体的でなく(例えば具体的な浄土の名称など登場しない)、仏像を造像できるような階層においても、まだ素朴な信仰に止まっていたことが知られる。

 

 

その他 1

この法隆寺宝物館第2室の中で、年や願主が入った本格的な銘文をもつ作品が、丙寅銘菩薩半跏像のほかにあと2つある(つまり、銘文のない仏像の方がずっと多いということだ)。

 

ひとつは冠に如来像をいただくことから、観音菩薩像と考えられている立像で、2室に入って最前列、一番右側に展示されている。台座に銘文が刻まれ、辛亥年の造像であると書かれている。この辛亥が何年にあたるか説が分かれていたが、銘文中に「評」(律令制下の「郡」にあたる)という文字がみえ、これが使われていた年代の研究から、651年の造像と考えられている。像全体の雰囲気や銘文の字体は、さきほどの丙寅銘菩薩半跏像とまったく異なっていて、7世紀の金銅仏の多様性を感じさせる。

 

もうひとつは30センチほどの大きさの仏像光背で、壁付きのケースに展示されている。植物の模様や七仏がくっきりと浮き出し、周囲には飛天や火炎が取り付けられている。そこに小さな三尊像が取り付けられていたと思うが、残念ながら失われている。鋳上がりが極めてよく、いつまでも見ていたいと思うほど美しい。その裏側に7行にわたって整然とした文字が並ぶが、表側を展示しているため、文字は見えない。

 

法隆寺宝物館の第2室で、どれからどんな風に見たらよいか迷った時には、この銘文をもつ3つをまずじっくり見てみたらいかがか、というのが筆者の提案である。

 

 

その他 2

法隆寺宝物館第2室の奥には第3室があるのだが、ここは閉まっていることが多い。

この部屋の展示は古代の伎楽面である。木製品であり、金銅仏よりもさらに温湿度管理に気をつけているということなのであろう。春、夏、秋の各季節でそれぞれ1ヶ月弱、合わせて年間で2ヶ月半ほど公開されている。

 

東京国立博物館・展示・法隆寺宝物館

 

 

さらに知りたい時は…

「調査報告 東京国立博物館所蔵の金銅菩薩半跏像」(『MUSEUM』673)、2018年4月

「野中寺弥勒菩薩像について」(『Museum』649)、藤岡穣、2014年4月

「四十八体仏の世界」(『日本美術全集2 法隆寺と奈良の寺院』、小学館、2012年)、岩佐光晴

『仏像のかたちと心』、金子啓明、岩波書店、2012年

『日本彫刻史の視座』、紺野敏文、中央公論美術出版、2004年

『日韓古代彫刻史論』、大西修也、中国書店、2002年

『法隆寺献納宝物銘文集成』、東京国立博物館編、吉川弘文館、1999年

『週刊朝日百科 日本の国宝』043、朝日新聞社、1997年12月

『法隆寺献納宝物』(展覧会図録)、東京国立博物館、1996年

「法隆寺献納宝物一五六号と野中寺弥勒像」(『論争奈良美術』、大橋一章・編、平凡社)、小泉惠英、1994年

『金銅仏』(『日本の美術』251)、鷲塚泰光、至文堂、1987年4月

『解説版 新指定重要文化財3、彫刻』、毎日新聞社、1981年

『飛鳥・白鳳の在銘金銅仏』、奈良国立文化財研究所飛鳥資料館編、同朋舍、1976年

 

 

仏像探訪記/東京都