大悲願寺の伝阿弥陀三尊像
4月21日、22日に開扉
住所
あきる野市横沢134
訪問日
2013年4月21日
この仏像の姿は(外部リンク)
拝観までの道
大悲願寺は、JR五日市線の終点、武蔵五日市駅とそのひとつ手前の武蔵増戸駅の間の線路沿い、北側にある。
武蔵増戸駅から歩いて20分弱。
伝阿弥陀三尊像は秘仏で、毎年4月21日、22日の2日間開帳している。開帳の時間は11時と15時で、お集りの方が参拝を終えた時点でご開帳もおしまいとなる。
拝観料
志納
お寺や仏像のいわれなど
大悲願寺は鎌倉初期の創建。真言宗。本堂は江戸中期の建築で、東京都内を代表する近世建築とのことである。
伝阿弥陀三尊像は、本堂に向って左側に建つ観音堂内に安置されている。このお堂は本来は仏画の千手観音像をまつるためのお堂だったということで、観音堂と呼ばれているらしい。江戸時代後期の建物で、内外陣を格子戸で仕切った密教本堂の形式のお堂。ご開帳の日は、法要のためにこの格子戸は外される。
拝観の環境
15時の開帳に合わせて14時40分くらいに到着すると、お堂の正面奥の大きな厨子の前はまだ帳がかけられ、ご開帳に先立つご法要が行われていた。お堂はそれほど大きくなく、参拝の方がお堂の外まであふれるようなって、法要に参加し、またご開帳をお待ちになっていた。
法要はちょうど15時に終了し、その後30分くらいご住職のお話があったのち、順番に厨子の前に進んで参拝することができた。
仏像の印象
伝阿弥陀三尊像は、平安後期から鎌倉時代前期の作である。3躰とも坐像で、中尊は阿弥陀仏に多く見られる印相とは異なり、指で丸をつくらずに腹前で組んでいる(法界定印)。また、向って右の脇侍は千手観音像で、一般的な阿弥陀三尊像とは違った組み合わせである。
中尊は像高約90センチ、高い肉髻、粒の揃った螺髪、面長な像である。
口もとはややほころんでいるが、優しいというよりは引き締まった表情。目がややより気味で細く、切れ長せず、下まぶたが単純で力強い弧を描いているのが、そうした強い印象を与えているのかもしれない。ただし、遠くから近くから、また正面から斜めからと変えて見ていくと、印象が変わっていく。すばらしい仏像と思う。
上背を高くし、身体は薄く、脚部の衣の線は定型化しているように思える。右足を上にして組む。
脇侍像の像高は各60センチほど。
向って右側の千手観音像は同じく面長で、目の感じも中尊に似る。脚部の衣の線は浅く、優美に流れる。
一方、向って左側の勢至菩薩像はかなり雰囲気が異なり、顔つきは引き締まり、衣の襞も深く刻む。中尊、千手像より遅れて、鎌倉時代に入っての像と思われる。
その他
三尊の像内底板に墨書(修理銘)がある。南北朝時代の1337年と桃山時代の1582年に修理が行われたことが記される。南北朝時代の修理にあたったのは讃岐法眼円西という人物であることがわかる。千手観音像の頂上仏面はこの修理時の補作とも考えられ、円西の作である可能性がある。円西作の像と伝わっているものには、福島・成願寺の聖徳太子(南無仏太子)像および千葉・法華経寺の日高(にっこう)上人像があるそうだ。
さらに知りたい時は…
『奥州仏教文化圏に遺る宗教彫像の基礎的調査研究』、有賀祥隆ほか、2006年
「定印の阿弥陀如来像について 法界定印阿弥陀如来像を中心として」(『仏教芸術』232)、武田和昭、1997年5月
『五日市町の文化財』、五日市町教育委員会、1985年
『五日市町史』、五日市町史編さん委員会、1976年