黒石寺の薬師如来像

  きびしいまなざしの薬師さま

住所

奥州市水沢区黒石町山内17

 

 

訪問日 

2014年5月25日

 

 

この仏像の姿は(外部リンク)

奥州遺産 薬師如来坐像

 

 

 

拝観までの道

黒石寺(こくせきじ)へは、東北本線の水沢駅前より岩手県交通バス正法寺線にて「黒石寺前」下車、すぐ。または大平(おおだいら)線にて「黒石」下車、徒歩約25分。いずれも本数は少ない。

 

岩手県交通バス・路線バス

 

拝観は事前連絡必要。

 

黒石寺ホームページ

 

 

拝観料

500円

 

 

お寺や仏像のいわれなど

このお寺を考える上で重要となるのは、胆沢(いさわ)城の存在であろう。

胆沢城は802年、坂上田村麻呂によって築かれた。彼は征夷大将軍として蝦夷征討を積極的に進め、同年、蝦夷のリーダーであるアテルイを下した。

その翌年にはさらに北進して紫波城を築くが、胆沢城はこの地方を治める中心であり続けた。それまで多賀城におかれていた鎮守府(陸奥の軍政をつかさどる役所)も胆沢城に移された。

 

胆沢城は北上川の西岸にあり、奥羽山脈に発する小河川によって形成された大きな扇状地の北東の端にある。一方黒石寺は北上川の東岸、胆沢城から見て南南東、直線距離にして10キロほどのところで、山ふところにいだかれるようにして建っている。胆沢城の至近ではないが、関係がないとも思われない。

 

本尊の薬師如来像はその銘文から862年、すなわち胆沢城がつくられてのち干支がひとまわりした年に造像されている。像内銘には8人の人物が書かれ、「額田部」「穂積部」「宇治部」「物部」といった名前のルーツは胆沢城築城時の東国から移民に求められるのではないかという説がある。

 

 

拝観の環境

本堂に向かって左手の収蔵庫に薬師如来像と僧形坐像(伝慈覚大師像)が安置される。

庫内、すぐ近くよりよく拝観させていただける。側面の様子もよくわかる。

 

 

仏像の印象

薬師如来像は像高120センチ余りの坐像で、カツラの一木造。足の部分まで含んで、像のほとんどを一木から彫出する。背中からくりを入れ、背板は杉材を使用している。頭部などに乾漆を併用している。

 

銘文は下腹部の内側と膝の内側に銘文が書かれている。年と人物が書かれるが、読めないところも多いものの、上述の通り、額田部、保積部、宇治部、物部といった氏族名が書かれている。ひときわ大きく書かれる「策最(または栄最)」はおそらく僧の名前で、発願者か供養者であると思われる。

 

また、862年を示す年が書かれているが、平安時代の仏像で銘文をもっている像の中で、最も古い年代を有する像である(さらに早い年代が書かれている像として興福寺北円堂四天王像があるが、これは修理銘から導かれる年代)。

しかも、平安時代前期の彫刻をその中心的な年号を用いて「貞観彫刻」ということがあるが、貞観の年号を実際に銘文にもつ像は本像だけなのである。まさに平安前期時代を代表する作品といえる。

 

この像で、まず印象的なのは目である。異様な釣り上がりをしているのである。当時の人が薬師像にこめた呪術的な力を目の力強さによって表現しているのであろうか。また鼻の下から上唇にかけても、大変に力をこめてつくっている。肉髻は自然な盛り上がりで、螺髪の粒は大きい。額は狭く、顎は力強い。

面奥や体の奥行きはあまりなく、材による制約を受けているのであろうか。

怒り肩、腹は堂々と、また腹部から肩にかけての衣の線は素朴な力強さがある。右肩にかかる衣の折り返しのうねうねした模様も面白い。

 

光背は後補だが、つけられている化仏の如来坐像7躰は当初の像。

本体の薬師如来像が厳しくいかめしい顔つきをしているのと対照的に、化仏はやさしく穏やかな表情をしているのが面白い。

 

 

僧形坐像について

収蔵庫で薬師如来像の横に安置されている僧形坐像は、慈覚大師の像であると寺では伝えている。この像にも銘文があり、1047年の作とわかる。

像高70センチ弱、カツラの一木造である。

本尊の薬師如来像も異相であったが、この像もなかなかのもので、目こそ眠るがごとき穏やかさを見せているが、鼻は大きく、強い印象がある。唇もきびしい意志をこめた強さのようなものを感じさせる。

衣は多くの仏像の着衣とは異なった不思議な着方をしており、こういったことからも神像なのかと感じさせる。

膝前あたりの衣の線はしのぎをたて、きびしい。

 

 

本堂の仏像について

本堂では、薬師如来像の脇侍の2菩薩(日光・月光菩薩像)、四天王そして十二神将の像を拝観することができる。

 

四天王像は160~170センチの像高で、前方に安置された伝持国天、伝増長天像はケヤキ、後列に置かれた2像はカツラ材という。おそらく前の2像が本尊と同時期、後ろの2像はそれからあまり隔たることなく補われたのではないかと思われる。

持国天像、増長天像の造形はとても面白い。

平安時代以後の四天王像では、手の上げ方、足の出し方など、左右の像の相称性が強くなる。しかし、黒石寺の像は、右手をあげる持国天に対し、増長天は左手をほぼ真下に突き出す。両像とももう一方の手は腰に当てて、腰をかなりつよくひねり、からだをくの字にしている。

顔は小さく、簡素な兜をつける。上半身は比較的細く、下半身はとても大きく、太くつくられる。かなりアンバランスで、ユーモラスな造形であり、それでいて同時に安定感も感じられる。福島県の勝常寺の四天王像もユニークだが、本像もほんとうにいつまでも見ていて見飽きない像である。

像は須弥壇上に安置される。そばまで寄って拝観できる。

 

日光・月光菩薩像は像高約100センチ。カツラの割矧(わりは)ぎ造。平安後期の落ち着いた作風。

十二神将像は像高約110センチくらいで、鎌倉時代から室町時代くらいの作と思われる。素朴でかわいらしい。四天王像の後ろになって見えない像があり、残念。

 

 

鉄造狛犬について

本堂前の石段の両側に珍しい鉄の狛犬1対が置かれている。

小さな顔はユーモラスな雰囲気を出していて、前足を突っ張り、またくりくりとした体毛やとんがった尾も面白い。

肉厚は薄く、高い技術でつくられている。南部鉄器で有名なこの地域らしい作品である。

江戸時代の作であろうか。

 

 

さらに知りたい時は…

「ほっとけない仏たち95 黒石寺の薬師如来」(『目の眼』566)、青木淳、2023年11月

「岩手・黒石寺薬師如来坐像と像内銘記」(『MUSEUM』659)、西木政統、2015年12月

『みちのくの仏像』(展覧会図録)、東京国立博物館ほか、2015年

『みちのくの仏像』(『別冊太陽』)、平凡社、2012年

『みちのくの古刹 天台宗妙見山黒石寺』、光陽美術、2006年

「陸奥黒石寺における「往古」の宗教的コスモロジー」(『岩手史学研究』84)、 佐々木徹、2001年

『図説 みちのく古仏紀行』、大矢邦宣、河出書房新社、1999年

『月刊文化財』405、1997年6月

『解説版 新指定重要文化財3 彫刻』、毎日新聞社、1981年

『日本彫刻史基礎資料集成 平安時代 造像銘記篇』1、中央公論美術出版、1966年

 

 

仏像探訪記/岩手県