毛越寺宝物館の諸像
魅力ある小仏像たち
住所
平泉町字大沢58
訪問日
2009年6月6日、 2021年10月3日
拝観までの道
東北本線平泉駅下車、西へ徒歩約10分。
拝観料
700円
お寺のいわれ
寺伝によれば9世紀、円仁がこの地で霧のために立ち往生している時、神鹿の毛によって導かれて聖地に至り、そこに寺を設けたのが毛越寺のはじまりという。実際にはこの寺を開いたのは奥州藤原氏であり、円仁開創の寺伝は寺名から発想したものであろう。
それにしても、毛越寺とは不思議な名前である。付近の毛越(けごし)という地名に由来するともいうが、逆に毛越寺から地名が発生した可能性もある。基衡は多数の兄弟間の競争を勝ち抜いて2代めの地位を得たと伝える剛勇の者で、彼の時代は奥州藤原氏の勢力拡大期であった。そこで南の上野、下野(群馬、栃木)や北陸の越後、越中(新潟、富山)を目指すという意味でこの名がつけられたのではないかとする説もある。
創建は奥州藤原氏初代の清衡(きよひら)、その死後火災で焼失したが、2代めの基衡(もとひら)がいっそう美しい寺院につくり直したという。
その伽藍は壮大で、平泉が頼朝に征服された時に平泉の寺僧によって提出された文書によれば堂塔は40以上、禅房は500以上、本尊の丈六薬師仏は雲慶作で、はじめて玉眼を用いた仏像であると書かれている。残念ながらこの大伽藍は13世紀前半に焼失してしまい、「毛越寺は吾が朝無双の寺院であったのに」と、鎌倉幕府の正式記録である『吾妻鏡』は伝えている。
今日の毛越寺は、最も古い建物でも江戸時代に伊達氏によって再建された常行堂であり、復元整備されて当初の浄土式庭園の姿がみごとによみがえった庭園を除いては、かつての荘厳のありさまを思い浮かべるのはなかなか難しい。
拝観の環境
門を入ってすぐ左手にある宝物館には、毛越寺に属す諸院の仏像の中で文化財指定を受けているものが集められている。
ガラス越しではあるが、間近でよく拝観できる。
仏像の印象
宝物館内で見ることができる仏像は、いずれも30センチから40センチほどの像である。
聖観音坐像、阿弥陀如来坐像は、小像ながらなかなか風格のある像で、かつての毛越寺の繁栄の一端をかいま見る思いがする。
熊野三神像とされる三尊形式の神像は、中尊は坐像で脇侍は倚像(腰掛けている)という大変珍しい組み合わせである。やはり破損が進んでいるが、力強い風貌に引きつけられる。
訶梨帝母(かりていも)像は、鬼子母神とも呼ばれ、子どもを抱いた姿で表されるが、鎌倉期以前までさかのぼる像はたいへん珍しい。半跏踏み下げ像だが、残念ながら下半身(右手先も)は後補である。優しい姿の像である。像の厚みはあまりない。
以上はいずれも平安時代後期の作で、一木造または割矧(わりは)ぎ造。材はカツラを使ったものが多い。
不動明王像は銅造の立像で、バランスがよく、写実を基本にして理想化した造形は鎌倉時代のものである。鋳上がりがとてもよく、美しい像である。
その他
本堂(20世紀後半の再建)の本尊・薬師如来像は半丈六の坐像で、平安後・末期ごろの落ち着いた作風。近代になって他から移されて来た像と思われる。よく漆箔が残るが、近世の補修によるものであろうか。
大きなお堂の扉口からの拝観なので像までの距離が遠く、残念ながらよく拝観することは難しい。お寺の方の話によれば、毎月8日のみ堂内での拝観ができるということである。
*2021年にうかがった時には「特別拝観」として堂内で拝観することができた。
常行堂本尊は宝冠阿弥陀像と脇侍の四菩薩像で、近世の作とはいえ、阿弥陀五尊がそろって伝来している貴重な例である。
中尊の阿弥陀像は像高約80センチの坐像で、美しい像。
本堂と同じく扉口からの拝観。こちらはお堂が比較的小さいので像までの距離が近く、照明もきれいにあたっていてよく拝観できるが、中尊以外はよく見えない。
さらに知りたい時は…
『みちのくの仏像』(展覧会図録)、東京国立博物館ほか、2015年
『みちのくの仏像』(『別冊太陽 日本のこころ』200)、平凡社、2012年10月
『日本の中世を歩く』、五味文彦、岩波新書、2009年
『平泉 みちのくの浄土』(展覧会図録)、NHK仙台放送局ほか、2008年
『中尊寺・毛越寺』(『古寺巡礼』6)、田中昭三、JTBキャンブックス、2004年
『いわて未来への遺産 古代・中世を歩く』、岩手日報社出版部、2001年
『中尊寺を中心とする奥州藤原文化圏の美術工芸品に関する総合的調査研究』、有賀祥隆ほか、1999年
『図説 みちのく古仏紀行』、大矢邦宣、河出書房新社、1999年
『中尊寺と毛越寺』(『日本の古寺美術』19)、保育社、1989年