餘慶寺の薬師如来像

中国地方を代表する平安仏

住所
瀬戸内市邑久町北島1187


訪問日 
2017年4月2日


この仏像の姿は(外部リンク)
天台宗上寺山餘慶寺・寺宝について



拝観までの道
餘慶寺はJR赤穂線大富駅下車、西南に徒歩約20分。
駅から南へ、小学校・幼稚園の横を過ぎたら西へ。このあたりから上り坂になる。豊原北島神社の脇を抜けると、自然に餘慶寺の境内に入っている。前方に三重塔、本堂、右手に薬師堂。またそのほかにもお堂やお庭がある大きなお寺である。
駅からお寺までは、案内板が要所に設置されているので、わかりやすい。

平安時代の薬師如来像は、普段は非公開だが、4月上旬(4月1日から8日)の桜まつりと秋の大祭(10月中旬)の際に拝観できる。


拝観料
志納


お寺や仏像のいわれなど
奈良時代、吉備地方に報恩大師という高僧が48の寺をつくり、また整備したと伝える。本寺もこの48か寺のうちのひとつに数えられ、はじめは日輪寺といい、平安時代前期に円仁によって再建されて本覚寺となった。鎌倉時代に寺運は傾いたが、その後再建されて餘慶寺となった。
しかし、この間の事情は詳しくはわからない。
餘慶寺という名前の初出は1485年の文書(寄進状)である。
しかし、ふもとの薬師堂の薬師像(これが餘慶寺に伝わる平安仏の薬師如来像のことか)が移されてきたのは16世紀半ばのことともいい、ふもとの「下寺」を山上の「上寺」に併合した際に餘慶寺の名になったとの伝えもある。

現在餘慶寺に残る最古の建物は本堂で、1570年につくられている。
本堂本尊は秘仏の千手観音像である。

江戸時代には大名池田家の信仰があつく、子院はかつては7院7坊を数えたが、近代以後は6院となって現在に至っている。
天台宗寺院である。


拝観の環境
収蔵庫(薬師堂裏手に接続)に薬師如来像と聖観音像、十一面観音像の3躰の仏像が安置されている。扉口にはめられたガラス越しの拝観。中はライトで明るく照らしてくださっていて、よく拝観することができた。
私がうかがった日はまだ桜の満開には遠かったが、特設カフェが出ていたり、花見の方が宴を催したりと、華やかな境内であった。しかし収蔵庫は静かで、ゆっくりと拝観できた。


仏像の印象
薬師如来像は像高約180センチの坐像。堂々として、力強さを感じる仏像である。一木造で、背中からくりを入れる。手先は後補。
肉髻を大きくつくり、額は狭い。目は切れ長に、鼻は大きい。口はかたく閉じているが、どことなく笑みを秘めているようにも感じる。魅力ある顔立ちの像と思う。
首はほとんど見えず、上半身は四角張って大きく、頼もしい。胸元に渦巻きの文が見える。
脚部はしっかりと張って、安定感がある。膝頭に力強さがこめられているように感じられ、翻波式の衣のひだもしっかりと刻まれている。
足は右を上にして組んでいる。


その他(聖観音像と十一面観音像について)
薬師如来像の向かって右に聖観音像が立つ。像高約170センチ。一木造で内ぐりはない。手先は後補。頭部は小さく、丸顔である。ひだの彫りは浅めとなっている。下げた右手は長く、霊仏のおもむきがある。
もとは薬師如来像の脇侍であった可能性も指摘されている。

向かって左側に立つ十一面観音像は、ケヤキを用いているという。一木造。薬師如来像、聖観音像よりも素朴な感じがあり、時代もやや下がって平安時代後期頃の作と考えられる。両腕は後補。


さらに知りたい時は…
『図録 備前上寺山』、上寺山図録作成委員会、2006年
『備前四十八ケ寺』(展覧会図録)、岡山県立博物館、2003年
『邑久町史 文化財編』、邑久町史編纂委員会、 2002年
「余慶寺木彫聖観音立像をめぐる問題」(『 岡山大学法文学部学術紀要』37)、斉藤孝、1977年
「余慶寺 木彫薬師如来坐像私考 」(『岡山大学法文学部学術紀要』30)、斉藤孝、1970年


仏像探訪記/岡山県