安養寺の毘沙門天像
40躰以上の毘沙門天像を伝える

住所
倉敷市浅原1573
訪問日
2009年3月27日
この仏像の姿(外部リンク)
拝観までの道
安養寺は倉敷駅の北6キロほどのところ、丘陵地帯にある。
かつてはバス路線があったらしいが現在は走っていない。
最寄り駅は倉敷から伯備線で1駅の清音(きよね)駅で、そこから徒歩で約50分。舗装された広い道路だが、浅原峠を越えるかなり急坂の道である。
タクシー乗り場は倉敷駅北口と清音駅にもある。また、倉敷駅の南口のレンタカーのお店にはレンタサイクルがあるが、台数に限りがある。
正面の石段を登りきった左手にある成願堂(じょうがんどう)というお堂が宝物館で、基本的に日中は開扉している。ただし火曜日は閉門。また雨天時など開扉しない日もある。
拝観料
特に設定されていない。
お寺や仏像のいわれ
安養寺を訪れると、石段の中程にある門の上につくられた巨大な毘沙門天像がまず目に入ってきて、毘沙門天信仰が大変さかんなお寺であることがわかる。
このお寺の歴史はわからないことが多い。
この地域にはかつて朝原寺というお寺があった。八間四面で阿弥陀、釈迦、薬師をまつっていたという大きな本堂、塔、毘沙門堂などの伽藍が立ち並ぶ大寺院であった。
一方、安養寺裏山の経塚出土瓦経の願文には、安養寺の名前がある。どうやら11世紀後半には朝原寺、安養寺の両寺は近い位置で併存していたらしい。安養寺は朝原寺に属する寺院であったようである(安養寺は朝原寺の別称で、同一の寺院という説もある)。
14世紀前半、足利尊氏の弟直義と新田義貞方の武将大井田氏経による福山合戦によって朝原寺は焼け落ちた。その後も朝原寺は存続するものの次第に衰退して歴史のかなたへと退き、安養寺はもと朝原寺のあった現在の位置に移って朝原寺の毘沙門堂を合わせたという経過をたどったと推定されている。
安養寺の成願堂には、30躰を越える毘沙門天像が安置されている。江戸時代の記録によると、かつては108躰あったという。世には千体地蔵や三十三間堂の千一躰の千手観音のように同じ尊像を数多くつくるという例があるが、毘沙門天でもたくさんの像を造って1か所にまつるということがあったようだ。この安養寺のほかに岩手の達谷窟にもたくさんの毘沙門天像がまつられているが、いずれにしても非常に珍しい例である。成願堂以外のお堂に安置されている毘沙門天像もあるらしい(こちらは通常拝観できない)。合わせると40躰以上の毘沙門天像を伝えているという。
拝観の環境
お堂の中、像のすぐ近くに寄って拝観できるが、照明はやや暗い。
仏像の印象
成願堂の30躰ほどの毘沙門天像は、大体同じような姿をしている。ほぼ等身大の立像で、ヒノキの一木造、彫眼、動きは少なく、ややぎこちなく邪鬼の上に立ち、体の厚みは薄い。また、彫りも全体に浅い。平安後、末期の作という印象である。
お堂奥中央に1躰兜跋毘沙門天像が立ち、その脇の吉祥天像とともに国の重要文化財に指定されているが、他は未指定のようだ。
この2像以外の像は繰り返し修理され、中にはほとんど近世の新造のような像もあるらしい。
そうした復興像の場合、一般的には忠実に古像をなぞっているようでもどこかにその時代の特徴がでてしまうものだが、これらの像はかたくななまでに元の作風を守り通している。不思議なことである。その歴史をも越えようとするかのような姿には圧倒される思いがする。
その他
成願堂には経塚出土の誕生仏や平安〜鎌倉期の作と思われる金銅如来立像も安置されている。
さらに知りたい時は…
『新修倉敷市史2 古代・中世』、倉敷市史研究会編、1999年
『倉敷福山と安養寺』(岡山文庫188)、前川満、日本文教出版、1997年
『新修倉敷市史13 美術・工芸』、倉敷市史研究会編、1994年
『朝原山安養寺』、岡山県立博物館編、安養寺発行、1986年
『平安鎌倉の金銅仏』(展覧会図録)、奈良国立博物館、1976年