放光寺の諸仏

  甲斐源氏ゆかりのお寺に伝わる仏さま

住所

甲州市塩山藤木2438

 

 

訪問日 

2013年3月31日

 

この仏像の姿は(外部リンク)

放光寺ホームページ・放光寺の文化財

 

 

 

拝観までの道

JR中央線の塩山駅南口から山梨交通バス窪平行き、または西沢渓谷行きにて「放光寺入り口」下車。

または山梨市駅から山梨市民バス西沢渓谷線で「隼上(はやぶさかみ)」下車、国道140号線を東北に徒歩約5分。

 

 

拝観料

300円。喫茶とセット券もあり。

 

 

お寺や仏像のいわれなど

放光寺は源氏の一族、安田義定が開いた寺である。まさに平安時代から鎌倉時代へと移りつつあった1184年のことという。

もとは法光寺という寺名であったといい、16世紀以後今日の名前に改められた。また、かつては天台宗だったが、江戸時代以後真言宗の寺院となった。

 

本尊は、以前は阿弥陀三尊であったそうだ。すべて座った像であったと伝えるので、京都・三千院の阿弥陀三尊像のような来迎の姿であったのかもしれないが、16世紀末に甲府の善光寺に移されたというが、善光寺にはそれにあたる像は伝わらない。

現在の本尊は大日如来像で、収蔵庫に安置されている。

 

放光寺はまた、「花の寺」として知られる。仁王門をくぐると、四季折々の花が出迎えてくれる。

 

 

拝観の環境

まず、お坊さんからお寺の説明を受けたのち、本堂、愛染堂、収蔵庫、毘沙門堂の順に拝観する。

喫茶とセットの場合、拝観の最後にいただくことができる。お抹茶だけでなくコーヒーもある。 

 

収蔵庫には大日如来、愛染明王、不動明王の3躰の仏像が安置され、庫内で拝観できる。 

格子戸で仕切られているが、像までの距離はそれほどなく、照明もあるので、比較的よく拝観できる。 

 

 

収蔵庫安置の3像について

まず中央の大日如来像だが、像高は約1メートルの坐像。ヒノキの寄木造。智拳印を結び、大きな冠をつけた、金剛界大日如来像である。 

全体にあまり抑揚をつくらず、目を細めに閉じ、鼻の下からあごにかけてを小さくあらわす。大変落ち着いた、穏やかな顔つきで、平安末期ごろの優美な仏像といえる。 

頭部に対して腕や脚部は小さめであるが、安定感がある。 

脚部をくるむ衣は、浅い襞を多めに刻んでいる。 

 

大日如来像に向って左側に愛染明王像が安置される。像高は約90センチ。ヒノキの寄木造。 

本像は「天弓愛染明王」と呼ばれる珍しい姿をしている。 

愛染明王の姿は、『瑜祇経』というお経に書かれている。それによると手は6本で、左右それぞれの2本めの手に弓と矢を持つ。このお経の愛染明王の姿を述べた一節に「如射衆星光」とあり、天に向って矢を射る姿はこの経典の言葉を忠実に反映しようとしたものと思われる。 

こうした天弓愛染明王像は、この放光寺の像のほかに、高野山金剛峯寺に伝わる1躰と、京都府・神童寺蔵の1躰がよく知られている。神童寺像は弓矢を顔よりも高く掲げ、恐ろしげな顔が腕に隠れずよく見える。これに対して放光寺と金剛峯寺の像は弓を顔の前でかまえている。金剛峯寺の像は約50センチほどの比較的小さな像である。 

放光寺の天弓愛染像は、怒りの表情といっても口はあまり大きくは開けず、穏やかな雰囲気がでている。腕の付き方など素朴な雰囲気がある。上半身を高くつくる。脚部をくるむ衣の様子は優美で、隣の大日如来像と共通する。 

 

不動明王像は像高約150センチの立像。ヒノキの寄木造。

腰を右側にひねって、体に動きをつけているが、ややぎこちない。顔つきや衣の様子も素朴な味わいがある像。

 

 

毘沙門堂の毘沙門天像と仁王門の金剛力士像について

放光寺毘沙門堂にまつられている毘沙門天像は、このお寺を建立し、最期は頼朝によって死に追いやられた勇将、安田義定の面影をうつしてつくられた仏像と伝えられる。

像高は約150センチ。

華麗な彩色が目を引くが、これは江戸時代前期に保田(やすだ)宗雪によってなされたものという。宗雪は安田義定の子孫といい、幕命を受けて本堂再建に取り組んだので、当寺を中興した人物と位置づけられている。

確かに像の印象として、仏像というよりは人物像という感じがする。

左手を高く掲げ、右手は下ろして逆手に棒を持つ。全体に身体を弓なりに曲げる。

 

仁王門には、立派な金剛力士像(仁王像)が安置されている。

像高は2メートル半以上もある大きな像で、ヒノキの寄木造。

どっしりと重たい印象の像で、頭部は大きく、腕は太く、たくましい。手足や裙が風に翻る様子はあまり誇張的にはあらわさず、自然である。

もみあげを剃り残したような表現は、おもしろい。

 

もと、1キロ半ほど南にある三日市場武士原というところにあり、移されてきたという伝承があるそうだ。この武士原はかつては「仏師原」という地名であったらしい。ここに仏師の工房があったことを示すものであろうか。

また、近世の史料ながら、この像の作者を「南京彫工浄朝」としるしたものがあり、これは成朝のことをさしている可能性がある。

成朝は奈良仏師の正系で、頼朝に招かれて、父義朝の菩提のために建立した南御堂(勝長寿院)の造仏を担当している。その供養の席には安田義定も参列している。しかし、その後の成朝の足取りは知られていない。

推測の域を出ないが、その後成朝は安田氏の招聘によって、この地で本像を制作したのかもしれない。

そして、北条時政が伊豆・願成就院の造仏に成朝でなく傍系の運慶を起用したのが、頼朝の猜疑心をかきたてないためであったとするならば、安田義定が成朝を招いたことは、その後の彼の運命(1194年に頼朝によって誅殺された)にかかわる選択であったのかもしれない。

 

 

恵林寺開山堂
恵林寺開山堂

その他(恵林寺の仏像について)

恵林寺は放光寺の南、徒歩約10分のところにある。

鎌倉時代から南北朝時代にかけて活躍した禅僧夢窓疎石が開いた臨済宗寺院で、境内には武田信玄の墓所もある。

三門をくぐり正面が開山堂で、正面奥に夢窓疎石の像がまつられている。頭部は南北朝時代の作で、塑造、玉眼。体部は近世に補作されている。僧侶の肖像によくある、椅子にこしかけた姿で、像高(坐高)は約70センチ。

写真で見ると、写実的な顔つきであるが、扉口からの拝観で、堂内は暗く、像までの距離があり、よく見るのは難しい。開山堂は拝観自由。

 

その先、本堂、明王殿、庭園などの拝観は300円。

明王殿には武田信玄が自らの姿を写してつくらせたと伝える不動明王像が安置されている。像高約90センチの坐像で、これは信玄の等身といい、武田不動尊と称している。

 

 

さらに知りたい時は…

『関東の仏像』、副島弘道編、大正大学出版会、2012年

『東日本に分布する宗教彫像の基礎的調査研究』(『東国乃仏像』二)、有賀祥隆ほか、2010年

『祈りのかたち』(展覧会図録)、山梨県立博物館、2006年

『放光寺』(『山梨歴史美術シリーズ』1)、山梨歴史美術研究会、2005年

「山梨・放光寺仁王像について」(『仏教芸術』245)、鈴木麻里子、1999年7月

『山梨県史 文化財編』、山梨県 、1999年

『塩山市の文化財』、塩山市教育委員会、1978年

 

 

仏像探訪記/山梨県