石光寺の石造如来像
毎年1月中など公開
住所
葛城市染野387
訪問日
2013年1月26日
この仏像の姿は(外部リンク)
拝観までの道
石光寺(せっこうじ)の最寄り駅は、近鉄南大阪線の二上(にじょう)神社口で、南に徒歩約15〜20分。国道165号に出て、「新在家北」の交差点の先に「石光寺」を示す看板があるので、そこを右に折れるとまもなくである。
當麻寺(当麻寺)からは北に徒歩10分の距離。
古代の大きな石造如来像(お寺では弥勒如来像と呼称)は、弥勒堂内に安置され、普段はしまっているが、毎年1月中開扉されるのが恒例となっている。また、4月下旬〜5月下旬などの時期にも開扉されることがある。
下のホームページにて告知されるので参照のこと。
拝観料
400円
お寺や仏像のいわれなど
奈良時代に創建されたときには三論宗であったといい、その後真言宗を経て、現在は浄土宗。牡丹をはじめ四季折々の花が美しいお寺として有名。
境内からは奈良時代以前のものと考えられる瓦やせん仏が見つかっており、また巨大な塔心礎が残る。こうしたことから、古代には大寺院が存在し、その流れを汲むお寺であると考えられてきた。
中世成立の仏教通史書である『元亨釈書』や「当麻曼荼羅縁起絵巻」(鎌倉・光明寺蔵)には、天智天皇の時代に3つの光る大石があり、それを刻んで弥勒三尊像とした話が登場する。そこに建物をつくり、「染めの井」に近いお寺として「染寺」と呼んだと述べられる。
今、石光寺の境内には井戸が残り、それは中将姫が蓮からとった糸を染めた井戸であると伝え、その糸で編んだものが当麻寺の根本曼荼羅であるという。
これらのことから、石光寺は弥勒三尊石仏を本尊とした古代寺院で、中将姫が織り上げた当麻曼荼羅の糸を染めた井戸のあるお寺として「染寺」とも称したといわれる。
だが、こうした話がどれほど史実を反映しているものかを判断するのは、なかなか難しい。地名などからの連想で伝承が発生することはよくあるし、特に近隣の当麻寺の中将姫の物語が中世以後ドラマチックに発展し、広く知られていったその過程で、この石光寺の伝承も生まれたのだろうと考えるのが穏当なところと考えられて来た。
ところが、1991年、江戸後期の弥勒堂が老朽化して、その建て替えのための調査が行われた際、古代の石仏が発見された。古代の草創時本尊がこの大きな石仏である可能性は大いにあるといえよう。そうすると、古代の本尊が石仏であったという記憶が中世へと引き継がれ、光る石から石像を彫りだしたという伝承へとつながっていったということになる。
拝観の環境
石光寺の門やお堂は東面してつくられている。門を入って正面が常行堂(阿弥陀堂)で、その向って左側が弥勒堂である。
弥勒堂の本尊弥勒如来像は、霊験が強すぎるために秘仏とされていたとのいわれをもつ。室町時代ごろの木造の坐像で、筆者が訪ねた時には厨子が開かれて、拝観することができた。
出土した古代の石仏は本尊の後ろのスペースに安置され、すぐ前よりよく拝観できる。
仏像の印象
石造如来坐像は顔面、体、、台座、その他肩や足などの破片に分かれ、それぞれ破損が進んでいるが、復元して考えると半丈六の大きさであり、これほどの大きさと古さの丸彫りの石仏はおそらく他に例がなく、貴重である。
肉髻を低くつくり、大きく胸を張り、簡素な衣をつけた如来坐像で、手は失われているが、残存部から推測すると右手は施無畏印、左手は与願印であったと思われる。
頭部が大きく、堂々とした体つきから、同時期の当麻寺弥勒如来像を思わせる。
比較的当初の姿がよく偲ばれるのは体部で、手や下半身は欠けるものの、それでもどっしりとした存在感を示している。
台座も一部しか残らないが、四角い形の上に裳をかけている様子がわずかにわかる。
石材は凝灰岩である。近くの二上山は凝灰岩の産地として知られ、その石材を使ったのではないかと思われる。
さらに知りたい時は…
『奈良県指定文化財』第33集、奈良県教育委員会、1993年
『当麻石光寺と弥勒仏』、奈良県立橿原考古学研究所、吉川弘文館、1992年
「石光寺の発掘と出土遺物」(『仏教芸術』203)、河上 邦彦・鈴木 喜博、1992年7月
「日本美術誌8 当麻寺と石光寺」(『芸術新潮』23巻8号)、栗田勇、1972年8月