石位寺・聖林寺・文殊院の仏像
白鳳、天平、鎌倉各時代の代表作をめぐる
住所
桜井市忍阪870(石位寺)
桜井市下692 (聖林寺)
桜井市阿部645(文殊院)
訪問日
2011年11月27日
この仏像の姿は(外部リンク)
レンタサイクルでまわる3か寺
石位寺(いしいでら)、聖林寺(しょうりんじ)、文殊院(もんじゅいん)の3か寺はすべてJRおよび近鉄線の桜井駅より南側にある。
バスもあるが、本数は多くない。事前に時間を調べておいて、徒歩での移動と組み合わせながらまわることになる。天気がよければ桜井駅北口の駐輪場にあるレンタサイクルを使うとよい。
*筆者が利用したのは近鉄サンフラワーレンタサイクルだったが、2022年4月に営業を終えたとのこと。
自転車では次のようにまわった。
石位寺は、桜井駅の東南東。駅南口の商店街を東へと抜け、国道165号(初瀬街道)から国道166号に入る。バス停「信夫か丘」を過ぎ、「忍阪」のT字路の先、左側に石位寺を指す道しるべが立っている。そこからの道は「近畿自然歩道」だそうで、なだらかな坂をのぼっていくとまもなく石位寺に着く。
もちろん自転車をこぐスピードにもよるが、筆者の場合、駅から20分くらいであった。
石位寺から聖林寺へは、石位寺の南側の交差点「忍阪東」から西へと道をとる。
桜井市グリーンパーク(焼却場)、桜井中学校の前を通るこの道は、前半は上り坂だが、後半は下りとなる。「浅古」の交差点から県道、もしくはその一本西側の道を南へのぼって行くと、聖林寺の南側に出る。25分くらいだった。
そして、聖林寺から文殊院へは北西に10分くらい。ほぼ下り坂の道である。
聖林寺は町を見下ろす高台にあるので、上り坂を行かなくてはならないが、全体的に道はわかりやすく、快適だった。
石位寺について
自転車以外の行き方としては、近鉄大阪線の大和朝倉駅下車、徒歩約25分。
バスでは、桜井駅南口からの奈良交通バス70、71系統で「忍坂」下車だが、本数は多くない。
なお、バス停名は「忍坂」だが、地名は「忍阪」で、「おっさか」と読むのだそうだ。
石位寺は国道166号線の東側の高台にあり、もとは大きな寺院だったそうだが、その由来等、詳らかでない。
近代初期の廃仏の時期には、周囲の廃寺となったお寺から仏像が集められたり、逆に石位寺から仏像が別の寺院に移されたりしたこともあったという。例えば、20世紀前半に焼失した長野市保科町の清水寺を再興するにあたって、石位寺から7躯の仏像が移されている(これらの仏像は今も清水寺にあり、事前予約で拝観できるとのこと)。
しかし、その石位寺もまた衰微し、現在は無住となっている。
拝観は事前申し込みで、桜井市の商工観光課に10日前までに連絡してほしいとのこと。基本的には3月〜5月、9月〜11月に受け付けている。拝観料は200円。
石位寺の石造三尊仏
石位寺にはきわめて美しい石造の三尊仏が伝来する。古代の石仏の代表作といっていい。
中尊は倚像、すなわち腰掛けた姿をしている。倚像の仏像は珍しく、比較的よく見られるのは白鳳時代や奈良時代のせん仏などにおいてである。この三尊石仏も奈良時代以前の作と考えられている。
白く美しい石材は砂岩だそうで、高さは115センチほど。大きなおにぎりのような形をしている。
上には素朴な天蓋が彫りだされ、その下には中尊、左右には立像の菩薩が合掌する姿で浮き彫りにされている。
中尊の高さは約70センチ、脇侍は60センチ強の像高。目鼻立ちは若干摩滅して分かりにくくはあるが、保存状態は、今から1300年も前のものとは信じられないほどよい。
中尊、脇侍とも童顔に近く、やさしく微笑んでいる。
中尊は螺髪を刻まない。脇侍はこんもりとしたまげに小さな頭飾をつけ、腕から垂下した天衣が自然に風になびく。腰から別の天衣がもものあたりを横切る。片膝を若干曲げ、下半身には動きが見えるが、全体的には直立に近い。中尊の腰掛けや三尊の頭光も素朴で、向って左下には水瓶が彫られているのも面白い。
安置されている収蔵庫は外光が入り、よく拝観できる。
この収蔵庫は西面しているので、ご案内の方によると、晴れた日の午後、西日が入ると石仏はさらに美しく見えるとおっしゃっていた。
聖林寺について
バスの場合は、桜井駅南口から桜井市のコミュニティバス多武峯線(談山神社行き)に乗車し、「聖林寺前」下車。
十一面観音像であまりにも有名な聖林寺だが、本尊は石造の丈六地蔵菩薩坐像である。江戸時代の作。頭部がとても大きく、ユーモラスである。
堂内にはほかにも古仏が安置される。本尊に向って右斜め後ろの毘沙門天像は、中世の作。
なお、毎年11月中は「マンダラ展」が開催される。客殿で伝来の絵画が多く展示され、春日曼荼羅などの美しい仏教絵画を見ることができる。
拝観料は400円だが、このマンダラ展の期間は500円。
聖林寺の十一面観音像
十一面観音像は本堂から一段上がった収蔵庫に安置されている。本堂より渡り廊下で行くことができる。
収蔵庫の中は比較的広く、堂内で拝観できる。ただし、中央で仕切られ、ガラス越しの拝観。上下から照明が当たり、仏像の下半身にあたるところに背後が写り込むことが気になるものの、まずまずよく拝観できる。
この像はもと、三輪神社の神宮寺であった大御堂寺(だいごりんじ)の本尊であった。
この大御輪寺は近代初期に廃され、本像は聖林寺に移されて来た。この時、像は道ばたに打ち捨てられ、聖林寺の住職が見かねて運んで来た等巷間では言われもするが、それは事実と異なる。
本像は、正面の化仏が失われ、光背も破損しているが、それ以外は保存状態は極めてよい。多くの仏像で後補に変わっていることが多い台座や左右の垂下する天衣までもが当初の姿をとどめていることからも、ぞんざいに扱われたことはなかったことは明らかである。もともと聖林寺と三輪神社神宮寺は関係が深く、その縁で移されて来たということである(破損している光背のみ、奈良国立博物館に寄託)。
十一面観音など変化観音は、広い意味で密教の尊像である。多くの顔を持つ十一面観音をはじめ、目が3つになっていたり、多くの手を持つなど、要するに救済の力が並大抵でないことを端的にあらわしている。
この聖林寺の十一面観音像も、古密教の像らしく、厳めしく力強い顔立ちをしている。上半身は大きく、また厚みがあり、下半身は長い。裙の折り返しは風でひらひらと揺れるが、それは風をまといながら仏が出現する様子でもあろうか。
ほぼ直立するが、斜めから見ると腰が前に出て、足は若干後ろにさがる。大げさにいえば、横からの姿は「く」の字のようになっているということである。その足の位置と腕から下りてくる天衣とが絶妙なバランスで空間を作り出している。
* 十一面観音像の伝来については、仏像コラム「聖林寺十一面観音像と大御輪寺」もご覧ください。
文殊院(安倍文殊院)について
文殊院は、桜井駅南口から西南に徒歩20〜25分のところにある。
バスでは、桜井駅南口より石舞台行き奈良交通バスで「安倍文殊院前」下車。ただし本数は多くない。
安倍文殊院とも呼ばれるが、それは古代の名族安倍氏による創建と伝えられていることによる。
大化改新のクーデターののち、新政府首班として左大臣に任じられたのが安倍内麻呂(倉梯麻呂)である。文殊院はこの安倍内麻呂によって、現在地より若干西南の地(現在「安倍寺跡」として史跡公園となっている)に創建されたと伝える。今、文殊院境内を散策すると、横穴式石室が開口した古墳2基を見ることができるが、このうちの「西古墳」と呼ばれている方は、安倍氏の墳墓であるという。
かつては崇敬寺といい、別名として安倍寺、また文殊堂ともよばれた。東大寺の末寺であり、文殊菩薩の信仰が厚い寺院であったようだ。なお、現在も東大寺と同じ華厳宗の寺院である。
本堂は江戸時代前期の再建。お堂の入口にはたくさんの絵馬が懸けられ、また本尊の前での祈願を依頼する方もいて、現代においても信仰厚い寺であることがわかる。
拝観料は700円(茶菓子付き)。
文殊院の文殊五尊像
文殊院の本尊、鎌倉初期の文殊五尊像(ただし1躰については桃山時代の後補、また獅子も後補である)は、本堂の後ろに接続する耐火のお堂に安置されている。
中尊の文殊菩薩像は獅子に乗った姿(騎獅像)で、左足を踏み下げる。像高は約2メートルもあり、それが獅子の背の蓮台に乗っているので、まさに見上げんばかりである。
頭部内に銘文があり、作者がアン阿弥陀仏すなわち快慶であること、1203年の年記、50名ほどの結縁者の名前がある。その中には「南無阿弥陀仏」こと重源など、他の快慶作の仏像の結縁者と共通する人も多い。
実にりりしい像である。細部まで破綻なくよくまとまり、まさに快慶の面目躍如。玉眼を入れた大きな目は印象的であり、服装も華やかで、特に肘のところで袖が花のように開く。これはがい襠衣(とうい)という服制で、本来は女性の着物であったものが仏像に取り入れられたもの。
獅子はややとぼけた顔つきで、獅子舞の獅子を思わせる。きりりとした文殊との対比があざやかで、これはこれでよいとも思うが、いかんせん技量の劣る後補の作品であることは否めない。数十年あとに同じ慶派仏師の康円がつくった文殊五尊像(東京国立博物館蔵)の獅子を見ると、はるかに引き締まった顔立ちをしているので、本来の快慶一門の手によってつくられた獅子像が今見られないのは残念である。同様に本尊左後ろの大聖老人(最勝老人とも、寺では須菩提像と伝えている)も後補で、これも獅子同様一見して力強さに欠ける。
他の3像は本尊と一具であり、快慶一門による造像である。既述のように本尊内には1203年の年が記されているが、像内からは納入経典も発見されており、その奥書には1220年の年が書かれている。その時間の差は、五尊像すべてが完成するまでにある程度の時間がかかったことによるものであろう。
侍者のうち、獅子の手綱をとる于闐(うてん)王像は、像高2メートル半以上ある堂々たる壮年の像で、力強く腕を横に突き出す。
善財童子像は、于闐王像の半分ほどの像高(130センチあまり)しかない。一行を先導しつつ、振り向いて文殊像を合掌礼拝する姿で、右肩をあらわにし、衣は風を受けてひるがえる。可愛らしいしぐさの像である。
仏陀波離三蔵像(寺伝では維摩居士像)は像高約190センチの老僧で、やせこけた胸を見せ、錫杖を持って静かに立つ。
像高を揃えることなく、思い切って大小さまざまにあらわし、年も少年から老僧までの幅、しぐさや動きもさまざまに、非常に豊かな群像表現をつくりあげることに成功している。
文殊院のその他の仏像
本尊に向って右側、手前に平安時代の大日如来像が安置されている。
鎌倉時代以前、この寺の本尊であったという伝えをもつ。
像高は1メートルほどの坐像で、内ぐりもない一木造。上半身を高くつくる。地方作の素朴さが感じられる。脚部は後補。
また本堂に接続する釈迦堂に安置されている釈迦三尊像は、室町時代前期の作。中尊は165センチほどの坐像で、この時期の仏像として大作である。ヒノキの寄木造、玉眼。
もと、多武峰(とうのみね)に伝来した像である。現在の談山神社は、近代初期の廃仏以前は妙楽寺あるいは多武峯寺といい、大きな勢力を誇っていた。その講堂本尊であったのが本像である。ただし、本来は阿弥陀三尊像としてまつられていた像だったようだ。
さらに知りたい時は…
『観音のいます地 三輪と初瀬』 (展覧会図録)、なら歴史芸術文化村、2022年
『国宝 聖林寺十一面観音』(展覧会図録)、東京国立博物館ほか、2021年
『廃寺のみ仏たちは今』、小倉つき子、京阪奈新書、2020年
『国宝 文殊菩薩』(安倍文殊院発行の小冊子)、発行年月日記載なし
「安倍文殊院騎獅文殊菩薩像考」(『MUSEUM』673)、増山政史、2018年4月
『日本美術全集』3、小学館、2013年
「重源の文殊信仰と東大寺復興」(展覧会図録『大勧進 重源』、奈良国立博物館、2006年)、谷口耕生
『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記篇』2、中央公論美術出版、2004年
『日本上代における仏像の荘厳』、奈良国立博物館、2003年
『神奈備大神三輪明神』、三輪山文化研究会、東方出版、1997年
『桜井の文化財』、桜井市埋蔵文化財センター、1996年
『文殊菩薩像』(『日本の美術』314)、金子啓明、1992年7月
『飛鳥の仏像』、奈良国立文化財研究所飛鳥資料館、同朋舍出版、1983年
『桜井市史』上、桜井市史編纂委員会、1979年
「快慶作 文殊菩薩騎獅像 文殊院」(『国華』1000)、田中義恭、1977年5月