當麻寺中心伽藍と子院の仏像
白鳳期から室町時代まで、各時代の仏像が拝観できる
住所
葛城市當麻1263
訪問日
2013年1月26日
この仏像の姿は(外部リンク)
拝観までの道
當麻寺(当麻寺、たいまでら)は、近鉄南大阪線の当麻寺駅から西へ約15分。
拝観料
中心伽藍(伽藍三堂、すなわち金堂、講堂、本堂)の拝観は、本堂(曼荼羅堂)で受け付けている。拝観料は500円。
ほかに、拝観を受け付けている子院がある(後述)。
境内の様子
當麻寺の境内は、東西に長い寺地の中央に中心となる3つのお堂があり、南に塔、そして中心伽藍のまわりには十数の子院が並んでいる。
当麻寺駅からの参道を来ると、まず東大門(仁王門)をくぐる。正面が本堂で、このお堂は東面している。しかしその手前にある講堂と金堂は南面している。本来當麻寺は、多くの古代寺院と同じく南北を軸につくられたと思われるが、それと交錯するように東西のラインが生じ、こちらがむしろ中心線となっていく。
以下、もう少し境内の様子を説明しておく。
東大門を入るとまもなく左手に中之坊という子院がある。子院といっても、実際には奥院とともに當麻寺全体を管理している重要な寺院である。
その先がいわゆる中心伽藍で、右(北側)に講堂、左に金堂、講堂と金堂の間を進むとに本堂(曼荼羅堂)がある。
金堂と講堂は鎌倉時代の再建。一方、曼荼羅堂は金堂や講堂よりも大きな規模のお堂で、創建は奈良〜平安時代にさかのぼるが、平安後期に大きく改造され、現在の姿となったらしい。
金堂のさらに南側の高台には東西両塔が立つ。塔はともに三重塔で、東塔は奈良時代後期、西塔は平安時代初期に建てられたと考えられている。薬師寺のように近年復元されて東西の塔が揃ったという例を除けば、當麻寺は2つの塔がセットで伝来する唯一の寺である。両塔は離れて立っているために、一目で比較するのは難しいが、時代差を反映し、全体の雰囲気や細部は異なっている。東塔の方が逓減率が大きく、引き締まった印象がある。
本堂の西南に西南院(さいないん)という子院、本堂の裏手の高台には奥院(おくのいん)という子院がある。
お寺のいわれなど
創建期には三論宗であったというが、平安時代以後真言密教の力が大きくなり、その一方で多くの大和の寺院と同じく興福寺の支配力が強まった。その後、浄土教信仰が盛んであったことが下地にあったためか、浄土宗の勢力が増した。
現在の當麻寺は真言宗と浄土宗の2宗が混在し、子院のうち真言系が5院、浄土系が8院だそうだ。真言宗の子院の中心は中之坊、浄土宗の子院の中心は奥院で、この2つが共同して当麻寺の中心伽藍の管理を行っているかたちで、當麻寺全体の住職も両宗から交代で出しているということである。一寺院に2つの宗派というお寺は、天台宗と浄土宗による宇治の平等院が思い浮かぶが、こうした例は珍しい。
當麻寺は当麻氏(古代の名族葛城氏の一族という)の氏寺として創建された寺院と考えられる。
当麻氏は7〜9世紀の一時期に活躍したが、後には在地領主として現在の大和高田市付近へと移っていってしまったらしい。
この寺には、奈良時代以前の作である弥勒仏(金堂本尊)など創建期の遺品が伝わるが、一方本堂(曼荼羅堂)の前身となった建物や塔が奈良時代から平安時代初期にかけての建物であることがわかっているので、100年にもわたって伽藍の造営が息長く続けられたと考えられる。さらに、平安時代前期や後期の仏像も多数残ることから、そのころまで寺運は隆盛であったのだろう。
一般に、檀越が力を失うとお寺も傾くということが普通だが、當麻寺は当麻氏の氏寺から、多くの人々の信仰によって支えられる寺へとスライドすることに成功する。中将姫の往生と彼女が織ったと伝える当麻曼荼羅への信仰が高まり、寺の西にある二上山の彼方より来迎するという阿弥陀仏を慕って参詣者が増え、寺運も開けていった。
本堂(曼荼羅堂)の仏像
本堂はかつては西堂と呼ばれていたらしい。曼荼羅堂とも称されるように、当麻曼荼羅を本尊とする。
この曼荼羅は、伝説によれば奈良時代の高貴な姫君、中将姫が蓮糸で織り上げたものといい、根本曼荼羅とも呼ばれる。綴織(つづれおり)という極めて高度な技法でつくられ、唐時代の作との説もある。内陣中央に大きな厨子があるが、上から見ると平たい六角形の形をして、このお堂の前身堂の時代からの非常に古いものであるらしい。ただし、根本曼荼羅は傷みが進んでいるため非公開。最近では、2013年春に奈良国立博物館で開催された「當麻寺」展で、展示期間を限定し公開された。
根本曼荼羅にかわり、本堂厨子には室町時代に模写された文亀本当麻曼荼羅が掛けられ、金網越しに拝観でできる。
<阿弥陀如来像と中将姫像>
曼荼羅堂内で拝観できる像は、阿弥陀如来像、中将姫像、十一面観音像である。
阿弥陀如来像は曼荼羅厨子に向って左側に安置されている立像で、像高は2メートルをこえる大きな像である。下半身が短く、また全体に大味な印象の像で、鎌倉時代後、末期ごろの作という。
このお寺で毎年5月に行われる「お練り供養」(聖衆来迎練供養会式)は有名であるが、その法要の本尊だそうだ。
この阿弥陀如来像の下半身は袈裟を短く着けていて、裙が見えている。実は、この袈裟の下端部がとりはずしができるような構造となっている。かつては「お練り供養」の際に、像内に人が入って、本堂の縁へと出て、往生する人を阿弥陀仏が迎えるという儀式が行われていたらしい。この像の胸の中央には「卍」が描かれているが、もとはここが細い穴になっていて、入った人にとっての覗き穴となっていたようだ。
このように人が入り、儀式に用いられた阿弥陀像としては、岡山県瀬戸内市の弘法寺に伝来するものなどが知られているが、いずれにしても珍しい。
その「お練り」は、当麻曼荼羅を制作したと伝える中将姫の往生を再現し演じられるものであるが、本尊厨子に向って右側の小厨子内に中将姫の美しいお像がまつられている。本像は2013年春に奈良国立博物館で行われた「當麻寺」展に出品されたが、その事前調査で、1558年、宿院仏師源三郎の作と判明したとのこと。
<十一面観音像>
本堂内陣向って右側の脇の間に安置されている十一面観音像は、別名「織殿観音」とも呼ばれる。當麻寺に伝わる木彫像では最古の像と考えれている。
本堂は、手前と奥を隔ててまん中に格子がはまり、手前が礼堂、奥が内陣である。
この姿になったのは、12世紀前半の再建時である。しかしその後も改変は加わっている。
十一面観音像が安置されている脇の間は、参籠者のためにつくられた小部屋(局)だったようだ。
カツラ材、蓮肉まで一木で彫り出されている。背からくりを入れる。
垂下する天衣や手先は後補だが、全体に保存がよい。9世紀の作と考えられ、平安後期に曼荼羅堂が現在に近い姿に改変される以前から安置されていた仏像である可能性もある。像高は約170センチ。
四角張ったあご、単純な線であらわされた胸、下肢の翻波式衣文が大変力強く感じれられる。ほぼ直立し、下半身は長く、プロポーションがよい。
衣には当初のものと思われる彩色や文様も残されているそうだが、堂内に照明はあるものの暗く、細部はわかりづらい。
金堂の仏像
金堂の本尊は弥勒仏像、そのまわりに四天王像が立つ。これらは奈良時代以前、いわゆる白鳳期の仏像である。そのほか、木彫の不動明王像(像高約170センチ、クスノキの一木造、平安後期ごろの作)が前立ちのように本尊の正面に立っている。このため本尊を正面からは見にくくなっており、その点残念なのだが、須弥壇のまわりを一巡できるので、斜めや横から、遠くない位置でよく拝観できる。ただし堂内に照明はないので、晴天の日中に行くのがお勧めである。
<弥勒仏像>
本尊は像高220センチを超える堂々たる塑造の坐像である。
土で造形する塑造は他の材質にくらべて崩れやすく、これほどの大きな像が伝来していることは、奇跡的である。裳を懸けた四角い台座上に結跏趺坐する。台座と本体は密着しているため、本体内の構造は不明だが、おそらくよほど堅固な造りをしているのだと思われる。
両手や像の表面は後補、また膝やおしりのあたりにも補修がある。
螺髪は木製のものが少し残るが、これは後補で、台座を修復した際に塑造の螺髪が発見されており、これが当初のものと考えられている。頭部は大きく、螺髪がついていた当初の姿を想像すると、今よりもさらに存在感ある仏像であったことでろう。
荘重とも思える顔つきで、髪際や眉から鼻は単純で力強いライン、一方目や口は繊細な曲線でつくられている。
さらに魅力的なのは胸部で、ぐっと前にせり出すようにして、厚みをつくりだしている。
また、脚部の衣は太い線で、塑造らしい粘り強いと言いたいような力強い襞が刻まれている。
一方、首と胴、上半身と脚部はあまり有機的につながっていないようにも見える。
この仏像についての解説で、「ブロック的」「ブロックを積み重ねたような」と形容されることがあるが、肩の上に首がどんと乗るような印象や、腰までの上半身とは別物のようにして付いている下半身の様子が、その「ブロック的」という言い方になっているのだと思われる。
確かに、薬師寺の薬師三尊像中尊のような理想的な体つきからは遠く、年代のずれや、ルーツとなる大陸の彫刻の系統の違いなどがそこにはあるのだろう。
ただし、首については、像が傷んだための処置によって、短くなっている可能性も否定できない。
<四天王像>
本尊のまわりに立つ四天王像は乾漆造で、像高は約220センチの立像。
本尊の弥勒仏とほぼ同じ頃の作と考えられ、忿怒形の天部像としては、法隆寺金堂の四天王像に次ぐ時期のものである。直立した姿勢、異国的な風貌や服制が特徴的である。あごひげをたくわえ、肩掛けをつけ、そこに高い襟を立てる。
ただし傷みがはげしく、持国天像が比較的当初の姿を残すが、それでもかなり後世の手が入っている。増長天象や広目天像は一見して下半身が木彫に変わっているのがわかり、多聞天像はまったく後補の像となっている。
ところで、本尊の弥勒仏とこの四天王像はもともとのセットではないとする意見がある。
その理由としては、本尊が塑造で、尊格の低い四天王像が乾漆造であることの不自然さがひとつ。普通に考えばれ、重要な仏さまは銅造や乾漆など高価な材質を用いるのではないかというもの。それがここでは逆になっている。
加えて、弥勒仏の左右の須弥壇に穴があいているのは本来そこの脇侍が立っていたということであり、そうなると今でさえ狭く感じるのに、さらに像の密度が高くなって、不自然ではないかという指摘もある。
なお、金堂前(南側)には、日本最古という石灯籠が立っている。
講堂の仏像
講堂の本尊は阿弥陀如来坐像で、像高約220センチの坐像。定朝様のたいへん整った像である。
そのほか須弥壇上には等身大の如来坐像(等身大)、大きな地蔵菩薩立像、妙どう(巾へんにつくりは童)菩薩立像、不動明王立像、毘沙門天立像、千手観音立像が立ち並ぶ。今は失われたお堂などから集められてきた像と思われる。
その中では妙どう菩薩像が古様で、豊かな量感の像である。ケヤキの一木造で、内ぐりをほどこさない。像高約150センチ。10世紀頃の作である。
本堂、金堂と同様堂内で拝観できるが、拝観位置から仏像まで距離があるため、あまりよくは拝観できない。
子院について
當麻寺では、中之坊、奥院、西南院という3つの子院の拝観ができる(そのほかにも、庭園の拝観を受け付けている子院がある)。中心のお堂に加えてこれら子院をまわると、半日近くはかかると考えておくとよい。
<中之坊>
東大門の近くにある中之坊は、庭園と霊宝館(宝物館)の拝観で500円。
中之坊の霊宝館は数ヶ月ごと展示替えを行うので、いつも拝観できる仏像というものはない。私が行ったときには数点の仏像が展示されており、中で鉄宝塔内に安置された愛染明王の小像(室町時代)が目を引いた。
なお剃髪堂本尊、十一面観音像(導き観音と呼ばれる、平安時代)は、毎月16日に開扉されるそうだ。
<奥院>
奥院(おくのいん)は本堂と宝物館と庭園の拝観で500円(ただし本堂は改修中)。
文字通り一番奥(西)にある子院であるが、本来の意味は、浄土宗大本山の知恩院の奥の院であるという意味で名付けられたものである。本堂の本尊は円光大師(法然上人)の坐像で、年1度、命日法要のある2月24日に公開されているらしい。
宝物館では、銅板押出仏や珍しい鉄造如来坐像などが拝観できる。
押出仏は三尊像で、中尊は倚像、片手でもう片方の手をくるむような印相をしている。脇侍は立像であるが、向って右は菩薩像、向って左は通肩の如来像であり、珍しい。奈良時代以前の作で、保存状態もよい。
<西南院>
西南院(さいないん)は本堂と庭園の拝観で300円。
本堂の須弥壇上には、古代の木彫の立像3躰がまつられている。中央が十一面観音像、向って右が聖観音像、向って左が千手観音像である。これらはガラスの扉越しの拝観で、堂内はやや暗く、距離もある。
その中では、表面が金色である千手観音像は比較的像容がわかる。脇の手は大きなものの間に小さな手をつけていて、実際に千本近い手がついている。
2012年秋には内拝できる特別拝観が行われたが、今後については未定とのこと。
その他
ほかに、東京国立博物館や奈良国立博物館に寄託されている仏像がある。
さらに知りたい時は…
『月刊文化財』609、2014年6月
『當麻寺』(『新版 古寺巡礼 奈良』7)、松村實昭ほか、淡交社、2010年
「当麻寺金堂本尊の制作について」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要.』第4分冊56号)、金志虎、2011年
『奈良の仏像』、紺野敏文、アスキー新書、2009年
「當麻寺金堂 持国天立像」(『国華』1337)、松田誠一郎、2007年3月
『仏堂の空間と儀式』(『国宝と歴史の旅』2)、朝日新聞社、1999年10月
『奈良県指定文化財』39集、奈良県教育委員会、1999年
「‘迎講阿弥陀像’考」Ⅱ(『仏教芸術』223)、關信子、1995年11月
「当麻寺金堂弥勒如来坐像について」(『博物館学年報』27)、山本譲治、1995年
『当麻寺』(『日本の古寺美術』11)、松島健・河原由雄、保育社、1988年
「当麻寺の仏像」(『近畿文化』455)、紺野敏文、1987年10月
『当麻寺』(『古寺巡礼奈良』7)、富岡多恵子・中野善明ほか、淡交社、1979年
『当麻寺』(『大和古寺大観』2)、岩波書店、1978年